ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

米国「ハロウィンに子どもにレッスン来させるのってどうよ!」事情

2022年11月01日 | 米国○○事情
コロナ禍が終わって(いや、終わってないんだけど無理くり終わらせてるとも言える)、やっと念願の「Trick or Treat」ができるってんで、ぼくらは朝からワクワクドキドキ。
なのにぼくの意地悪先生はピアノのレッスンするからねって言うんだ。
いつもなら「スキップしてもいいよ」って言ってくれるおかあさんとおとうさんも、「まあ発表会がもうすぐだからね」って言って助けてくれない。
めっちゃむかつく!
なのでハロウィン姿で来てやった!
先生、ドアを開けるなり「きゃ〜っ!」て言ってびっくりしてた。
ざまあみろ!ウシシ!

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米国『中絶と奴隷と銃』事情

2022年06月25日 | 米国○○事情
先日の6月19日は生まれたてのホヤホヤ祝日でした。
その名は『Juneteenth・ジューンティーンス』。
アメリカ合衆国全土で奴隷にされた人々が解放された日、『奴隷解放記念日』です。

簡潔にまとめてくださっている記事からちょいと拝借させていただきました。
(全文はこちら→https://www.junglecity.com/live/life-basic/juneteenth/

1865年4月:奴隷制度反対の北軍が勝利し、南北戦争が終結
1865年6月19日:北軍のゴードン・グレンジャー将軍がテキサス州ガルベストンに入り、同州でまだ奴隷として使われていた人々に南北戦争の終結と奴隷制度の廃止を通達。
※奴隷解放宣言が出されてから約2年半が経過していた。

"The people of Texas are informed that in accordance with a Proclamation from the Executive of the United States, all slaves are free."
「テキサス州の人々に、アメリカ合衆国の行政機関の宣言に従い、すべての奴隷が自由であることを通達する」

これにより、6月19日を「アメリカで奴隷にされた人々が自由になった日」「奴隷解放記念日」として祝うようになりました。

奴隷制度は廃止されても、黒人に対する人種差別はさまざまな形で続いたため、キング牧師らが中心となり、1950年~1960年代の公民権運動を進めました。
1964年に人種差別を禁じる公民権法が制定されるまで、奴隷制度の廃止から約100年を要しました。

しかし、その後も問題が解決されたわけではなく、黒人差別がなくなったわけではありませんでした。
2020年5月25日にミネソタ州ミネアポリスでジョージ・フロイドさんが白人警官に殺害されたことを受けて、構造的な人種差別をなくすことを求める運動が全米に広がったことで、改めて広く実感させられることになりました。
引用おわり

そもそも奴隷制度が廃止されるまでには、ものすごく時間がかかっています。
1862年の9月22日にリンカーン大統領が奴隷解放宣言を出したのですが、全州がそれに倣らったのは約3年も後の1865年。

当時は伝達手段がとても限られていましたし、反対派の人々による妨害活動も盛んに行われていました。
結局、奴隷解放宣言を最後の最後まで無視していたテキサス州ガルヴェストンに、北軍のゴードン・グレンジャー将軍が入り、奴隷解放宣言をしたことで、やっと全米においての廃止が決まったのでした。 
その日が1865年の6月19日なのでした。

そういうわけで、テキサス州は奴隷制度廃止をぐずぐずと最後まで受け入れなかった州でしたが、ジューンティーンスを祝日として制定した最初の州でもあります。
といっても、奴隷制度廃止を受け入れてから、実に114年も後1979年だったんですけども。
それ以来、47の州とワシントンD.C.で、州の祝日や行事としてみなされていますし、Twitter社やSquare社などのように、企業の祝日とする会社も出てきました。

そして前出に書いた『フロイド事件』が発端となって全米に広がった『BLM』運動がきっかけとなって、2021年6月17日に、バイデン大統領のもと、6月19日が連邦祝日として制定されたのでした。


アメリカは人種のるつぼ。
宗教、信条の異なる多様な人々がごちゃ混ぜになって暮らしています。
政治や法律も州ごとに違います。
一律に、というわけにはいかない部分が本当にたくさんあります。
みんな違ってみんないい。
そういう人たちが助け合い、支え合っていく。
それが隅々にまでできたら最高ですが、実現にはほど遠い現実があります。
特にトランプ氏によるド派手な国の二極化後は、夥しい混乱を蔓延らせました。
彼は最高裁に保守派の判事を立て続けに任命し、9人のうちの6人を保守派で固めました。
そして今日、とうとうのとうとう、保守派が1973年以降から虎視眈々と進めてきた『中絶権利を認めない社会』が、ここアメリカで、2022年のアメリカで再来することになってしまったのでした。

このお話をするにはまず、女性が妊娠中絶を行う憲法上の権利を認めた、アメリカ合衆国最高裁の「ロー対ウェイド事件判決」についてお話ししなければなりません。
この判決を詳しい解説はいろんな方がされていると思いますが、わたし個人としてはこの方のお話が分かりやすかったので、紹介させていただきます。
前半と後半に分かれていて、とても長い記事ではありますが、アメリカという国が中絶ということについて、国のみならず州規模でも、ありとあらゆる規制や束縛を試みたことを知ることができます。
記事中の一部をつまみ出しただけですが、それを読んだだけでもびっくりします。

同法は、女性が中絶を選択する前に、24時間待機させる、妊娠中絶の危険を伝えると同時に出産して子供を育てることの意味を説明する、夫の同意を得る、未成年の場合には両親の同意を得るなど、いくつかの義務を女性と医師に課すものでした。
妊娠の全期間を通じてこうした手続きを設けるのは、妊娠第1期と第2期の中絶の規制を原則として禁止するロー判決に反していました。
ケーシー判決は、最終的に中絶選択の権利を女性に認めるという、ロー判決の根幹の部分をくつがえさなかったのです。
ケーシー判決は、妊娠中絶を3期に分けて検討するというロー判決の構成を、憲法上の根拠がないという理由でほぼ完全に否定します。
特に胎児の生命の保護という州の義務を、第3期のみに限定する理由はなく、胎児の権利は妊娠の全期間を通じて尊重されねばならないと判示しました。
そしてペンシルヴァニア法の規定をほぼ全て合憲と判断します。
ただし、中絶の規制が、女性に「不当な負担(Undue Burden)」を強いることになる場合には違憲とするという、新しい解釈を採用し、中絶の選択を事前に夫へ伝えるペンシルヴァニア法の課する義務は、夫が家庭内暴力を振るう場合に、女性にとって不当な負担となるために違憲であるとしました。

2017年に就任した共和党のトランプ大統領は、たてつづけに3人の保守派の判事を任命し、最高裁は、保守派6人、リベラル3人という構成になりました。
ケーシー判決からおよそ30年ぶりに、圧倒的に保守派が多くなったのです。

「何人も適正な手続きなしに生命・自由・財産を奪われてはならない」(合衆国憲法修正第14条)
「生存の意義や意味について個人が自分自身で決定する権利」は自由の根幹をなし、この自己決定権には中絶選択の権利が含まれるという見解が、今日覆されてしまいました。

この記事を読んだのは今から3週間ほど前で、当時もすでにわたしの周りの女性たちは、とんでもないことになりそうで嫌だと、顔を合わせては話していました。
デモもあちこちで行われていました。
その嫌な予感がバッチリ当たり、今日、1973年に下されたこの判決を、最高裁がくつがえしてしまいました。
引き続き、全国で大きなデモが行われると思います。


そしてもう一つ、アメリカを分断する問題、銃についてです。
昨日今日と、この2日間で、二つの判断が下されました。

銃については、先日の小学校での銃乱射はもちろん、これまでにも事件が相次いでいることから、規制強化を求める声が高まっています。
すでに厳しい規制をしている州もありますが、銃所持は当然の権利だと言って、スーパーの壁にずらりと拳銃を並べ、子ども用から大人用まで、いろんな拳銃を売っても良い州もあります。
ニューヨーク州は、ここニュージャージー州と共に、銃規制がとても厳しい州です。
ところがその、『拳銃を持ち歩くことを厳しく規制するニューヨーク州法』は違憲である、とする判断を、昨日23日、連邦最高裁が下したのです。
そうです、あの保守派が6名の最高裁です。
銃に関する判決としては、ここ10年以上で最も重大なものとされています。

その一方で、同日、米連邦議会上院は、銃の安全対策を強化する重要法案を可決しました。
下院は銃規制に積極的な与党・民主党が過半数を占めていることから、法案の成立は確実だと思われます。

銃規制について後ろ向きな判決と前向きな法案の可決が同時に行われた6月23日でした。
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米国『銃と子ども』事情

2022年06月01日 | 米国○○事情
もううんざりだ。もうこりごりだ。
この国で、いったい何度こんなニュースを聞いてきたか。
息子が入学したばかりだったバージニア工科大学でも、今から15年前の4月に、32人が銃殺される事件が起きた。
その日は50歳の誕生日を祝ってもらった翌日で、大雨の後だったからかとても寒かった。
パーティぼけのまま台所で遅めの朝食をとっていたら、夫の姉から電話がかかってきた。
今すぐテレビをつけて!と叫ぶ彼女の声に押されてテレビをつけると、いきなりライフル銃を携えた警官たちが見覚えのある建物の横を歩いている映像が目に入った。
アナウンサーの声は重く沈んでいて、なぜか雪が降っていて、パンパンパンと乾いた音が聞こえてきた。
その音の向こうで、恐怖に打ちひしがれながら殺された生徒たちがいたことを知ったのは、それから数十分後のことだった。
そしてその教室では息子が早朝から授業を受けていて、もしもその時間帯がずれていたら…と想像しただけで膝がガクガクと震えた。
電話で連絡がついた息子はすでに寮の部屋に戻されていて、けれども何が起こったのかは知らずにいた。
避難の際に、部屋からは一歩も出てはいけないと言われたと言っていた。
何が起こっているのかを知ろうとして窓のそばで外の様子を見ていると言うので、慌てて窓から離れなさい!と言ったあの瞬間を今でもはっきりと覚えている。
約2時間ほど経って、やっと大学から生徒宛に警告メールが送られてきたのだけど、犯人が同じ大学の韓国人の生徒で、しかもその名前が息子のルームメイトと同姓同名だったので息子はパニックに陥っていた。
事件が起こってからの対処が緩慢で、キャンパスの閉鎖はもちろん授業の中止もされなかった。
さらに、犯人の学生が、ずっと以前からおかしな行動を見せていたことを、大学や警察当局が知っていたもかかわらず、プライバシー保護を理由に、本人への対応や家族への通報を怠っていた。

事件後すぐに、韓国人生徒が犯人だったとわかるや否や、大学とその大学がある町が声明を出した。
私たちは、韓国人はもちろんアジア系の人々を、この事件をきっかけに差別したり非難したりしない。
怒りや悲しみをそちらに向けるようなことがあってはならない。

もちろんその声明が全ての人々の気持ちを代弁することも宥めることもできない。
けれどもすごいことだと思ったし、これからも大学に通い続ける息子のことを思うととてもありがたかった。

たくさんの失態を重ねた大学や警察当局だったけど、事件を教訓にしてあらゆる面でシステムを再構築したことは、2011年に再び起きた銃乱射事件での対応の迅速さを見ればわかる。
他の大学も然り。
けれどもなぜ、そんな対応に血道を上げなければならないのか。
銃が簡単に手に入るからだ。
しかも、数年前に、銃乱射が発生した現場に駆けつけた警官が恐れて適切な行動が取れなくても非難できないという決まりまで作られたというようなことを耳にしたこともある。
こんなことがまかり通っているような社会は変だ。
もう本当に銃社会に幕を閉じさせないといけない。
わたしたち大人が、本気で、今度こそ実現させないといけない。
突入しない警察対応は判断誤った=テキサス州の治安幹部 米小学校乱射 - BBCニュース

突入しない警察対応は判断誤った=テキサス州の治安幹部 米小学校乱射 - BBCニュース

米テキサス州ユヴァルディの小学校で起きた銃乱射事件で、警察の対応の遅れに非難の声が高まるなか、州の公共安全局トップが27日、犯人が立てこもる教室に警察が突入しなか...

BBCニュース

 


記事より抜粋:

「今すぐ警察を派遣して」 警察を呼び続けた生徒たち

マクロー局長は27日の記者会見で、学校内から警察にかけられた緊急通報(911)の時系列を説明した。

12:03 - 女子生徒が「911」に通報。名乗り、自分は学校の112号室にいるとささやいた

12:10 - 同じ生徒がまた911に電話。複数の死者が出ていると伝えた

12:13 - 同じ生徒が3度目の911通報

12:16 - 同じ生徒がまた911に通報し、生徒が8人か9人生きていると伝えた

12:19 - 111号室から別の人物が911に通報。別の生徒に電話を切るよう言われ、この人物は通話を切った

12:21 - この通話中、3回の銃声が聞こえた

12:36 - 最初の女子生徒からまた911通報があり、受理担当者は電話を切らずに静かにしているよう伝えた。生徒は犯人が教室のドアに発砲したと話した

12:43と12:47 - 女子生徒は911の担当者に、「お願い、今すぐ警察を派遣して」と求めている

12:46 - 女子生徒は隣の教室に警察がいるのが聞こえると話した

12:50 - 通話中に銃声が聞こえる

12:51 - 大きい銃声のほかに、警察が子供たちを教室の外に移動させているような音も聞こえる。この時点で、最初に通報した生徒は外に出ていた。通話終了


18歳誕生日にライフル購入 米小学校で銃乱射 21人死亡 会見中に“乱入”も(2022年5月26日) 

こんなに多いとは思わなかった…。まだ今年に入って(6月1日現在)151日しか経っていない。
なのに213件、それも4人以上が銃で撃たれた事件に限っていてもこの数字なのだ。
4人以下を入れたらどうなるのか?

そして学校に限ってもこの件数。

誕生日祝いに銃を手に入れるという異常。

子どもの銃撃による死亡が交通事故を上回っている異常。


彼は父親を銃で殺された。


それでもこの連中は動かない。動くふりをするか、のらりくらりと世論が冷めるのを待つ。


大人がどんなに抗議しても、がんとして改正されない銃規制。


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米国『ウイリアムズ・ソノマの水切りラック』事情

2022年02月21日 | 米国○○事情
まだ米国に移住して間もない頃、夫はそれまでの人生で初めて会社員になった。
それと同時に、夫と息子たちそしてわたしの4人家族の生活が始まってから8年ぶりに、一寸先の暮らしの心配をしなくても良くなった(まあそれも1年半ぐらいで終わってしまったのだけど…)。
けれどもだからといってゆとりは無く、ウイリアムズ・ソノマなどという高級台所用品店の老舗には到底入っていくことはできなかった。
ある日、新聞の片隅に、「ウイリアムズ・ソノマ大出血セール!」の広告が掲載されていて、そこに水切りラックが半額に!という文句と写真が載っていた。
わたしたちが引っ越した家は100歳を超える古いお屋敷で、一階の全てをわたしたちが、二階には大家さん夫婦が、そして三階には別の家族が暮らしていたのだけど、アメリカの家にしては珍しく食器洗い機が付いていなかった。
なので水切りラックを適当に買ったのだけど、育ち盛りの息子たちと夫とわたしの4人家族には十分でなく、できたらステンレスのしっかりした物が欲しいと思っていた。
そこに目に入ってきたその水切りラックは、見るからにがっしりとしていて使い勝手が良さそうだった。
でもなあ、半額でも45ドルっていうのはなあ…。
悩みに悩んで決心して、それまで外から眺めていただけのお店に入って行って、そのラックだけを抱えて戻ってきた。
それから早22年。
引っ越した一軒家も前の借家とどっこいどっこいの年齢で、しかも1階の台所は40年以上も使われていなかったので、当然食器洗い機も付いていなかった。
よくよく食器洗い機とは縁の無い人間なのだ。

さて、この、極めて頑丈で使い勝手が良く、22年間年中無休で役立ってくれている水切りラックを使うときの、わたしだけの決まりについて少し。
いや、そんなことはどーでもよいと思う方は読み飛ばしてください。

まず上段から、お皿や大きめのボールや丼や鍋などを置く。
それらからの水滴が収まってから、下段にコップや茶碗などの小物を置く。
新たに食器を洗う際には、ラックを完全に空にする。
などなど、しょうもない事なのだけどこだわりがある。
わたしにとって台所は、そういう小さくてどうでもいいようなこだわりが、そこらじゅうに息を潜めている部屋だ。
だから自分以外の人が使っているのを見ると、うぅ〜っとなることが多々あるのだけど、そこはもう他人との共生ベテランとしてのわきまえが一応備わっているので、上手に見て見ぬふりをする。
あと、洗濯物を干す時やたたむ時にも、わたしはわたしだけの決まりに従ってやる。
そして作業がすっきりと終わったら、鼻から小さな笑いを吹き、ささやかな満足感にひたる。

22年前のこの水切りラックはもうウイリアムズ・ソノマでは売っていない。
同じようなものをいくら探しても見つからない。
よく見るとあちこち傷だらけだし、小さな部品は無くなったけど、もしかしたら一生一緒に暮らせる相棒になるかもしれない。
そう考えるとあの時、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで払った45ドルだったけど、めちゃくちゃ買い得だったなと思う。
ありがとう、うちに来てくれて。
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米国『虫歯と眼鏡』事情

2021年09月30日 | 米国○○事情
9月下旬から先週の土曜日までの間、抱え込んでいたやらなければならないたくさんの事を済ませていった。
一番厄介だったのは歯と目の医者探しだった。
こちらの健康保険は、例えそれがオバマケア(国民健康保険もどき)であっても、歯と目の治療に関してはカバーしてくれないので、高額なくせにあまり役に立たないと評判の歯と目の保険を別々に買わなければならない。
こちらに移り住んで早21年が経ったけど、その間、歯の治療は実費で払い続けてきた。
ちなみに目の治療はまだ一度も受けた事がない。
歯の場合、たった一本の虫歯治療に何万円もかかるので、お金に余裕が全く無かった子育て時は、歯痛はとことん我慢するというのが当たり前だった。
もう我慢ができなくなったら行く→もちろん状況は最悪になって治療費がさらにかかる、という悪循環だったけど、それでなんとか凌いできた。
だけどここ数年、年齢のこともあるんだろうけど、インプラントやクラウンの治療が必要になってきて、これを実費で払うには、よほど注意して医者を選ばないといけないことを知った。
良い歯科医に治療してもらいたいのは山々なのだけど、治療費の事を考えると誰でも良いというわけにはいかない。
友人知人から教えてもらった歯科医に治療してもらい、費用を払う段になっておったまげる、という事も少なくなかったので、自分でコツコツ探しては行ってみるのだけど、やっぱり安い所にはそれなりの事情や理由がある。
悔しいけれど何件も実際に行ってみるとわかってくる。
だからまあ、今回は、決して安くはないけど法外に高くない、と思われる歯科医に診てもらうことにした。
予想通り、インプラント治療が必要だと言われた。
こちらでは、インプラント専門医に抜歯と義歯を被せる直前までの治療をしてもらい、また元の歯科医のところに戻って歯を被せてもらうというのが主流。
紹介してもらった専門医のところで抜歯してもらい、4ヶ月後にCT検査を受けてインプラント治療が始まることになっていたのだけど、抜歯だけで15万円払って仰天してたところに、その工程表に記されていた費用を見て目の前が真っ暗になった。
40万?!
もうすでに15万払っていて、そこに40万がさらにかかって、歯を被せる時にまた15万以上かかるはず…。
ってことは70万円かかるのか、たった1本の歯に…。
嫌だと思った。
流石にこれはないと思った。
でも今更他のところに移るのもなあ…とウジウジしていたら、その額を聞いてたまげた夫の友人が、わざわざマンハッタンからハドソン河を渡り、家族みんなで通っている歯科医院をゴリゴリ勧めてくれた。
わたしの家からだと車でちょうど30分ぐらい。
行ってみるとそれはそれは明るくて、開放的で、スタッフも医者もみんな若くて親切で、全員が韓国人で、また一からデータの撮り直しがあったけど、どれも最新機器で行われたので気にならなかった。
歯には問題がたくさんあるけど、歯根と骨はものすごくしっかりしていると言われた。
専門医と掛け持ちをする必要がなく、全ての工程を一人の担当医がしてくれる。
そしてドキドキの費用の合計は…19万5千円。
え?保険無しですよ、ほんとにそれでいいんですか?と思わず聞いてしまった。
それでいいんだって分かって、もう本当に救われた気持ちになって、何度も頭を下げてお礼を言った。
みんな、韓国ドラマで見るような、年上の人に対する若者たちの恐縮の仕草で、そんなお礼なんて必要ありませんよと微笑んでくれた。
治療はまだ始まっていないけど、支払いを恐れなくてもいい(もちろん多額の出費には変わりがないけど)事がどんなにありがたいか。
と、ここまでは歯のお話。

続いては目。
夫に鍼の治療を受けようとTシャツを脱いだ時、頭のてっぺんに乗っけていたメガネが落ちてレンズが割れてしまった。
そのレンズの上半分はピアノの楽譜を読むために、下半分は本を読むために調整されているもので、これが無くなると色んなものが読めなくなってとても困る。
そこでこちらに来て初めての検眼を受けることになった。
日本だと眼鏡屋さんに行けばそこで検眼して眼鏡を作ってもらえるけど、こちらではそうはいかない。
検眼してもらうためには、例えそのお店で眼鏡を購入するとしても、検眼代を払わなければならない。
それがまた高い。
大型チェーン店でも最低5000円、町中の眼鏡屋さんだと1万円を超える上に、なにやら検眼士の能力差も大きいらしい。
なので毎日時間があったらパソコンで評判を調べたり、値段を調べたりしていたのだけど、どこを選んでも何某かの問題が出てきて決められない。
やっと決めて予約を取ったものの、たかだか眼鏡のレンズを作り直してもらうだけのために、眼科医に診てもらわなくてもいいのではないかと思い直したり、いや、この際だから歳も歳だしきちんと診てもらおうと思ったり。
そんなこんなで何ヵ所も予約してはキャンセルし、ぐずぐずと迷っていたのだけど、あと1週間に迫っていたコンサートでのドタキャンがあったからと急遽代わりに演奏することになって、ますます眼鏡が必要になってしまった。
焦って行った場所は小規模のチェーン店で、検眼を担当するのは眼科医で、けれども費用は6千円と比較的安かったので飛び込んだ。
検眼は日本とは全く違う方法で行われ、目の後ろや周りの写真を撮ったりして、目の神経や血管はとても健康だと知らされた。
その処方箋を元にレンズを作ってもらうことになったのだけど、その時初めてわたしのメガネは縁無しだということを知り、うちはこの種類の修理はできないとあっさり断られてしまった。
そして再び店探しが始まる。
今度は縁無しメガネのレンズだけ作ってもらえる店を探さなくてはならない。
それが本当に難しかった。
店に行っては断られ、また行っては断られして、ネットでの評価を何千件も読んでクタクタになっていたところ、
「彼の技術はすごい。眼鏡に対する情熱を感じる。店に行けない人のために百個近くのフレームを抱えて自宅に来てくれる」
というコメントが書かれた店が目に入った。
もしかしたらこの人ならOKしてくれるかもしれない。
そう思って電話をかけてみた。
受付の女性に説明したのだけど、どうも話が通じない。
現物の写真を撮って送ってと言われたので送ってみると、横で男性の声がして、できると思うので持ってきてくださいと言われた。
ちょうど出先の車の中だったので、すぐ行きますと言って、ナビに住所を入れて走った。
案内に従って行くと、どんどん怪しい雰囲気の場所に進んで行く。
到着しましたとナビが言うのだけど、着いたところはスーパーマーケットの駐車場だった。
そのスーパーもなんと言えばいいのかサイケデリックで、中に入るまで何のお店なのかわからないような感じで、恐る恐る中に入ってみると一応スーパーマーケットだったのだけど、眼鏡屋なんてどこにも見当たらない。
お店の中をぐるっと一回りして、やっぱり見つからなかったので店員さんに尋ねると、ああ、あの角を右に曲がって突き当たりを左に曲がって、その奥にあるよ、と言う。
指された方を見ても首を傾げてしまうほどに何も無さそうだったけど、言われた通りに行ってみると、夜店サイズのそれはそれは小さな店舗が数件並んでいた。
一番奥の部屋の壁には眼鏡のフレームが所狭しと展示されていたので、やっとそこだと分かったのだけど、部屋の中には小さな折り畳み机の前に座っている女性と、奥の角っこで何か作業をしている男性だけ。
一瞬迷ったのだけど決心して、サッシの引き戸を開けて入った。
さっき電話した者ですと言って壊れた眼鏡を見てもらう。
すると男性がスッとそのレンズを手に取って、あかりに透かして見始めた。
そして言ったのだ。
そのレンズがどのような性能を持っているか、どのような追加がされているか、それら全てを的確に。
わたしは驚いて彼の横顔を眺めていた。
レンズ代はここから選んでくださいと、手書きの一覧表を見せてくれた。
実は何件か通った眼鏡屋で、元々のレンズの性能と同じ物を作る場合、レンズ一枚だけで5万円以上かかりますと言われて卒倒しそうになっていたので、その一覧表の価格はレンズ1枚分なのだろうと思っていたら、なんと2枚の値段だと言う。
結局はレンズのサイズを一回り大きくしたもらったり、光線対応を新たに加えてもらったりしたので、総額は5万円近くになったけど、フレーム修理も込みでの値段なので満足している。
仕上がるのに3週間かかると言われて、今待っているところ。

つい最近教えることになったモンスター生徒の話はまた後日。

慌てて練習して本番に臨んだコンサートは、パートナーのソプラノ歌手がワクチン接種証明ができないので建物の中に入ることができず、今度は我々がドタキャンをした。
マンハッタンはパッと見は元の姿に戻ったように見えるけど、廃業したお店が点々とあって、逆に営業を続けられているお店が奇跡のように思える。
お店はどこも、ワクチン証明書と顔写真付きの証明書(免許証など)の2枚を提示しないと入れてくれない。
これにはきっと賛否両論があると思うけど、あの地獄を見た人たちが暮らす街としては致し方がないと思う。

あ、そうだ、ある週末にマグロパーティに招いてもらって、今まで食べた事がないような美味いお寿司(例えば「鎧身」と呼ばれる部位)をいただいたことも書いておきたい。
これもまた後日。
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米国「混んでる駐車場の小確幸なお話」事情

2021年09月15日 | 米国○○事情
上の写真はコストコの前に行ったコリアンマーケットの魚売り場のアンコウくん。目と牙がド迫力だったので。


ニュージャージーのコストコの駐車場は、なぜだかいつも混んでいる。
人口密度が全米一だからだろうか、などとふと考える。
特に週末はすごいことになっているので、あそこには平日に行くことにしている。
といってもそんなに頻繁ではなくて、夫が仕事に使うペーパータオル、うちで使うティッシュやトイレットペーパーやコピー用紙(と、ここまで書いて紙ばっかりだなと気づく)を買い足したり、ホールフーズで買うと5倍くらいは高値になるチップスやクラッカーを買ったりするだけなのだけど…。

昨日は月曜日だったのに異常に混んでいて、広大な駐車場をしばらくグルグルと様子見しながら探していた。
ようやく買った物を積み荷している人を見つけたので、よっしゃ〜と思って近づいて行くと、ちょうど同じタイミングで対向車側から近づいてきた車と睨み合いになった。
出る車はわたしの車の側だったので、この場合はわたしが場所をいただけるだろうと思って待っていたのだけど、反対側に居る車の主も全く動こうとしない。
う〜ん…嫌な予感がする。
とりあえず場所が空いたら入れてみようと思いながら待つこと2分、ようやく車が出てきたのでハンドルを切って駐車しようとしたら、
パッパァ〜〜〜!!と、けたたましいクラクションの音がして、鬼のような顔を窓から半分出したおばさん(わたしと同じ年頃)が、こちらに向かって怒鳴っている。
周りの人たちもびっくりしてそのおばさんの顔を見ているのだけど、おばさんは「そこは私のもんだ、どけ!」と叫ぶばかりで、他の人のことなど全く気にしていない。
わたしも一瞬対抗しようかと思ったけれど、そういうのは超疲れるので、スゴスゴとバックして場所を譲った。
すると近くに居た老年カップルが二人して、韓国語でその女性に向かって文句を言い(多分)、次にわたしに向かって「待っていなさい、この場所に停めたらいいから」と言ってくれるではないか。

ああ、きっと彼らはわたしのことを韓国人だと思っているな。
そして同郷のよしみでわたしのために憤慨して、わたしのために場所を譲ってくれるのだ。
ありがたいことだ。
実はわたしは、こちらに在住する韓国の人たちに、韓国人に違いないと思われることがとても多い。
どこぞの島の女性の多くが、わたしと同じようなおでこと目元である、と言う人もいる。
母上は在命か?もしそうなら尋ねてみるといい。きっと大きな秘密を抱えておられる、とまで言う人もいる。
いやいや、そんなことをおっしゃられてもわたしは日本生まれの日本人で、けれども韓国語が大好きで話せるようになりたい気持ちは山々なのだが一向に進まないのです。
と、一体何人の韓国人に説明してきたことか…。

などとあれこれ思い出しながら待っていると車が動き始めた。
ぼんやりしていたので慌ててギアを入れてゆっくりと車を出そうとすると、あらら、いつの間にかそのスポットを狙う車が2台も居て、先ほどの韓国人女性が警備員みたいに手を振ってその2台の車の動きを止め、わたしを誘導してくれているではないか。
「何ぼんやりしてんの、早く、さっさとここに入れなさい!さあ早く!」

なんだか胸がグッと熱くなって、わたしは頭を下げ下げ車を入れた。
途中で窓を開け、外の女性に「トップネヨ!カムサハムニダ!」と一言だけお礼を言うと、「ケンチャナケンチャナ」と言って去っていく。
カタコトの”カ”ぐらいしか話せないけれど、なんかちょっと韓国に近づけたような気がした。
ただそれだけの話なんだけど、今でもその時のことを思い出すと胸がほんわかと温かくなる。
アンコウくんには申し訳ないのだけれど…。
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米国「ハリケーンアイダ」事情

2021年09月03日 | 米国○○事情
浸水の写真なので、ちょっとばっちい写真を載せます。
この記事は食事などをしながら読まない方が良いと思われます😅

昨日は朝から雨が降ったり止んだりが1日中続くという予報が出ていて、ちょっと困ったなあと思っていました。
昨日からレイバーデイにかけて6連休を取った息子とお嫁ちゃんのTちゃんが、引っ越しと資格試験が終わったのでとうちに来ることになっていたので、お祝いのご馳走のための食材を買いに出かけなければならなかったからです。
外に出ると雨は止んでいて、グッドタイミ〜ング!と鼻歌を歌いながら出発。
車で30分ほどの所にある日本食材のお店と、そこから15分ぐらいの所にある韓国食材のお店を梯子して、その間も降っても小雨程度だったので、な〜んだ、この程度の雨だったら1日中でも別にいいかも、などと思っていました。
家に戻り、腕まくりをして料理開始。
二人がうちにやって来る前にできるだけ済ませておきたかったので、時計を睨みながら細々と動き続けました。
お料理の大部分ができた頃に二人が到着。
それから少し経って夫も帰宅したので、みんなで乾杯して夕飯が始まりました。
雨も風も昼間よりはかなり強くなっていたけど、それでもまあ今までにも大雨が降ったことは何度もあるので、特に心配もせず、みんなで話に花を咲かせていたのですが、デザートを食べ終わった頃に長男がふと、地下にある何かを見に降りたその時…。
「ちょっと来てみて、水が入ってきてるみたいやで」
その声が始まりでした。

みんなでどれどれ?と下に降りて見ると、確かに水が入ってきています。
110年前に建てられたまま、何も手が加えられていない我が家の地下室の壁は、レンガと大きな岩でできています。
どこかに穴でも空いているのか、強風が伴う大雨が降ると必ず、床面に水がうっすら溜まることがあるのです。
まあ大丈夫だろうとぞろぞろと上に戻り、念のために外はどうかと玄関のドアを開けると…。
え?!

パトカーとこの水の量を見てまず絶句…。


恐々歩道に出てみると…こんなのは見たことがありません。

横庭はいつの間にか池に変身していました。

これは尋常じゃないとやっと気づいた我々が、もう一度地下に戻ってみると、

卓球台の下に敷いていたゴム製のマットがぷかぷかと。
「サーフィンみたい」と陽気なTちゃんと、写真用のポーズを要求するわたし😅


10年前のちょうど同じ頃、わたしたちが引っ越してきた翌年の夏にも似たような浸水があって、その時に温水器が浸かって使い物にならなくなったので、夫が買ったポンプらしいのですが、いや、小さいよ😭

どうやら水が噴き出てくる穴を見つけたよう。

塞ぐための道具作りを始める息子。

試してみる。

どうも十分ではない様子。

それではと、今度は廃棄タイヤからチューブだけを取り外し、

それをグルグルにして詰め込んでみると、

完全に止めることができて、男たちはハイタッチを交わし、すると別の場所からボコボコと水が噴き出してきて、そこで一旦諦めることに。
ばっちい写真でごめんなさい!
でも右下にあるのは例のブツではありませんのでご安心を。
ちゃんと説明するともっと気持ちが悪くなるので内緒で言います。これは家猫たちが狩りをして食した動物の残骸です。すみません!めっちゃグロテスクで!


結局どんどん水嵩は増し、10年前のちょうど同じ日に取り替えたボイラーの下の部分まで水に浸かってしまいました。も水に浸

とりあえず普通のシャワーは諦めて手足を洗うだけにしました。
そしてトイレは小なら流さず大なら流す。
とにかく地下の水がどこから出てきたものかがわからないので、せめて家の中だけでも水を使う量は極力減らさなければなりません。
想像すると気持ちが悪くなるので、できるだけ考えないことにしました。

夜中の3時ごろに停電になり、そのまま朝に。
台風一過のようなピカピカの晴天です。
しかも道、乾いてるし?!
でもやっぱり確かに浸水していたのでした。
道路の中央に止まったまま動けなくなった車、カーブしようとして流されてしまった車などが目に入ります。

息子がたまたま偶然に来たのも、このMIYATAが呼んだのかもしれません。
ジャジャ降りの中、車に水が入らないようにと、ジャッキであげたようです。
彼がいなかったら絶対にMIYATAはご臨終でした。

池だった庭も、

MIYATAの修理用ツール。

戦果の跡が、

うちの住所は1から始まります。
この通りの1番目に建てられたのですが、坂道の下から1番目というのが災いの元なのです。
緩やかな下り坂の終着点がうちの辺りで、そこからまた少し上がるので、ちょうど底の浅い谷間になるのです。


眠れずにいた夜中の3時に停電になり、ああ、また1週間は待たなければなと暗い気持ちになって、冷凍冷蔵食品を袋に入れて、夫の診療所の冷蔵庫に移し替えたり、お酒のロック用の氷の大袋を小分けして、電気の消えたうちの冷蔵庫をできるだけ冷やそうとしたり、長期停電には慣れっこなので、淡々とやるべきことをしてから食事をしていると、
あ、ついた!
なんと、わずか16時間で電気が復活しました。
なんてありがたいんだろう😭
それからはひたすら片付けと掃除です。
地下室の水は粗方引いて、夫と二人で箒で穴の方に水を誘導したりしましたが、まだまだ掃除ができる状態ではありません。
なので地下は放っておいて、一階の床掃除と、濡れては拭き、また濡れては拭きしたタオル類の洗濯に取り掛かりました。
どうやら今回の浸水は、わたしたちだけではなく、誰にとっても本当に突然のことだったようです。
みんな普通に食事をしたりテレビを観ていたというのです。
一体どうしてあれほどの水がどこからやってきたのか?
なぜ十分な警告が為されなかったのか?
いつもならうるさいほどに前々日から警告が繰り返されるのに、どうしてすっかり浸かってしまってから警告が出たのか?
みんながみんな首を捻っているのです。
うちの地下は放ったらかしですが、ご近所さんはどこも部屋仕様に改装していて、そこに1メートル以上の水がいきなり壁のあちこちからジャアジャアと流れ込んできたのですからたまりません。
本当にショックだっただろうと思います。
今日は朝から晩まで、発電機の音とポンプから吸い出されてきた水が道路脇を流れる音が聞こえてきました。
それでもまだ、水は30センチほど残っているそうです。
消防は30センチ以上だったら大きなポンプで吸い出してくれますが、それ以下だったら来てくれません。
来てくれるにしても、被害が大きかったら順番待ちでなかなか来てもらえません。
なので民間の会社に頼むのですが、中にはろくな道具も無くて、作業がなかなか進まないところもあるようです。

初めにびっくりして大騒ぎしたので、心配をかけることになってすみませんでした。
水はほぼ引き、停電も直り、なんともう動いてくれないだろうと観念していた温水器が稼働してくれました!
なのでお湯も使えます。
心配してくれたみなさん、本当にお騒がせしました。
明日はもう少し落ち着いて、このハリケーンの詳しい話をここに追加しようと思います。

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米国「コロナ禍の子どもたち」事情

2021年08月21日 | 米国○○事情

4人の子どもたちのお母さんとお父さんが、ワクチン接種を拒否し、新型コロナウイルスに感染してしまいました。
2人は共に、数日のうちに相次いで亡くなったため、彼らの4人の子どもたちは孤児になってしまいました。
「どうか子どもたちがワクチンを受けられるようにしてください」
それが挿管をされる前のお母さんが口にした、最後の願いでした。
またしてもテキサスで起こった悲劇です。

テキサス州とフロリダ州の知事は、自治体や学区がマスク着用を義務づけることを禁止する知事令を出しています。
数日前に、そのテキサス州知事が感染し、今は自主隔離と治療を受けているそうです。
マスクをせずに、室内に大勢を招いた後で感染したのですから、場所を共有した人たちもきっと感染してしまったでしょう。
彼は毎日検査を受けていて、陽性だとわかれば適切な治療を即座に受けられますが、いくら検査が無料でどこで儲けられるとしても、罹ってしまったら大変なことになる人が大多数なのに、あまりにも無責任だと思います。
ここまで極端ではないにしろ、他にもあと6州が、感染対応がおざなりで、ワクチン接種率もとても低いままです。
テキサスのこの家族のような悲劇が何回繰り返されれば、あと何人の子どもが孤児になれば目が覚めるのでしょう?


一方で、子どもたちにも感染の被害が広がっています。
米国で14日、新型コロナウイルス感染症で入院した子どもの数が過去最多の1902人となった。
南部では感染力の強いデルタ型変異株による感染拡大で、医療体制が逼迫している。
デルタ型は主にワクチン未接種者の人口の間で急速に拡大しており、ここ数週間で入院者が急増。
厚生省によると12歳未満の子どもの入院が急増して過去最多に達した。
現在、小児の感染者は全米の入院者の2.4%程度。
12歳未満の子どもはワクチン接種対象となっておらず、感染力の強い変異型に対して脆弱な状態だ。
米疾病対策センター(CDC)によると、今週には18─29歳、30─39歳、40─49歳の新規入院者も、
過去最多の水準に達している。

ワクチンは万能ではありません。
救世主でもありません。
ワクチンの副反応で健康を害したり、最悪の場合には命を落としたりする可能性だってゼロではありません。
わたしは基本的にワクチンが嫌いでした。
恐ろしかったし自分の体に入れたくない物としてずっと忌み嫌っていました。
けれども今回、このパンデミックに遭遇し、仕事上でも悩み、家族としてでも悩み、本当に悩んで悩んで、それでも結構長い間決心がつかずにいましたが、結局今年の5月に接種しました。
ワクチン接種者となった今でもきっと、油断したら危ない。
いや、油断していなくても、いくら必死で注意していても、感染してしまう可能性はあると思っていましたが、今回のデルタ株、デルタプラス株やラムダ株は、その可能性をぐんと大きくしてしまいました。
けれども多分、これも100%ではないけれど、重症までには至らずに治すことはできるだろうという安心感があります。

さて、わたしの生徒の約半分はワクチン接種の対象外、12歳以下の子どもです。
本当に悩ましいです。
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米国「五つの州(ニューヨーク→コネチカット→マサチューセッツ→ニューハンプシャー→メイン)珍道中」事情

2021年07月28日 | 米国○○事情
去年の2月末に1週間だけ日本に行ったのは、パンデミック直前のことだった。
それから1年半の間、親族と友人の家以外はどこにも行かず、去年に引き続き今年の夏もまた、日本行きを諦めた。
新型コロナウイルスのワクチン接種が進むにつれて、日ごとの新規感染者数がみるみる減ってきたので、マスク着用の義務も無くなり、コロナ以前の生活に戻れるかもと思ったのも束の間、新種株ウイルスの出現で再び怪しい雲行きになってきた。
そんな中、マイルストーンバースデイを迎える友人のパーティに参加しついでに、その前後に2日ずつ日をとって、東海岸北上の旅に出ることにした。

新しく造り替えられたマリオ・クオモ橋(前はダッパンジー橋という名前だった)でハドソン河を渡る。

初日の宿泊先を決めないままに出発したので、わたしが運転している間に夫がせっせと探して選んだハートフォードという町の信号。
カナダと同じ縦型で、それが珍しかったのでFacebookに載せると、友人が豪雪地域とかでは縦型になると教えてくれた。

レストランの近くに電車の駅があった。


飛び込みで入ったけど味は上々。マスクはワクチンを打っていない人だけ、という決まりになっていた。


アボガドの冷たいスープ。

わたしは牛肉のスペアリブ。

夫は貝柱と焼きブロッコリー。


多分市役所。


泊まったモーテルはピックアップトラックや家族連れが多かったけど、「うちは静かですよ」とフロントが言っていたように外からの物音がほとんど聞こえない快適な部屋だった。

2日目、バースデイパーティが行われる湖畔近くのホテルまで行きがてらに寄った、アメリカで一番古い港町グロスター。
この町ではマスクをしている人はかなり少なくなった。


サージェント・ハウス・ミュージアム


『The Sargent house Museum』
アメリカで最も早く女性の権利を主張した一人であるジュディス・サージェント・マレーは、アメリカ独立戦争中にこの地に住んでいました。
現在は博物館として、建物と歴史的なコレクションから彼女の人生を垣間見ることができます。
また、ジョン・シンガー・サージェントやフィッツ・ヘンリー・レーンなどの作品も展示されています。


ふらっと入ったアンティークのお店の奥で見つけた珍しいレコードプレーヤー。
自動でレコード盤を変えていくパナソニック製。


グルテンフリーを中断して白身魚のフライを食べた。美味い!


見たことがない虫。


岩が大好きなので、その名も『ロックポート』という町を目指して海沿いを走っているうちに、超高級住宅街に迷い込んだ。


家の敷地から見下ろす風景。



どの家も、巨大な岩がドカンと居座っていて、それを上手に生かした庭作りをしている。


写真には撮れなかったのだけど、家屋と同じくらいの特大サイズの岩がある家もあった。いいなあ…。

双子灯台。


『ロブロリーコーブ・タチャーアイランド(Loblolly Cove Thacher Island)』
ロブロリー入り江の向こう側には、ケープアンという名の双子の灯台があります。
1861年に花崗岩で建てられたこのツインライトは、海抜166フィートの所に建っています。
かつては22マイル先まで光が届いていたそうです。
北はポーツマス港、南はボストン港の単灯と区別するために、2つの灯台が建てられました。
1800年代後半には、5つの灯台守の家族が住んでいました。
灯台守たちは、子どもたち(ある年は13人もいた)を学校に通わせるために、この入り江に向かって舟を漕いだのだそうです。
舟から降りた子どもたちは、ロックポートのダウンタウンにある学校までの2マイルを歩いて通いました。
この灯台は2001年に、国立公園局によって国定歴史建造物に指定されました。


浜辺も岩だらけ。


車から降りて一休み。

ゴツゴツした岩に座り、海の上で足をブラブラさせながら風に身を任せる。なんていい気分!



そして…。
隣に座っていた夫に電話がかかってきた。
難しい患者さんからの電話で話が長くなりそうだったので、わたしだけ先に下に降りることにした。
座っていた岸壁はけっこう高さがあったので、2回に分けて降りなければならなかった。
説明が難しいのだけど、真っ直ぐに飛び降りることはできないので、1メートルほどの高さを体を捻って飛び、片足で着地しなければならなかった。
一瞬躊躇したのに、気がついたら体は宙に浮いていて、着地に失敗した体がぐらっと傾き、ゴツゴツした岩肌の上に倒れてしまった。
最初はとにかく右の脇腹が何かに刺されたように痛くて息もできず、もちろん声も出ないまま数分くの字になって呻いていた。
夫は上の方でまだ電話中だったし、近くに人もいなかった。
電話を終えて降りてきた夫が、とりあえず上半身だけ起こして震えているわたしを見て、どうしたのかと聞くので、怪我をした膝を見せた。
あれほど強かった脇腹の痛みは消えていて、ぽっかり穴が空いた膝頭からは血が流れ、体を庇おうとして突いたのか、右手の中指と薬指、それから左手の親指の付け根が、少しでも動かすと針で突かれたように痛んだ。
傷口が深く血の奥に白いものが見えたので、縫った方が良いと思ったけれど、縫うと必ず膿んでしまうので、夫の鍼治療と漢方で治してもらうことにした。
まずは応急手当て。


痛くても写真は撮る😅

マサチューセッツ州からニューハンプシャー州への道すがら、突如現れたでっかい風力発電。


ニューハンプシャーの湖畔でのパーティ。
天気は上々、水温も上々、怪我さえなかったら…😭

キャンプファイヤー🔥



参加者はめいめいにテントを張り、


好きなように過ごす。


やっぱりここでも岩がゴロゴロ。

カクテル作りの天才さんがいて、めっちゃ美味しいのを作ってもらった。

ハイライトは対岸から上げられたお祝い花火。


旅行最後の日はめちゃくちゃ気持ちいい天気に恵まれた。
びっこを引きながらのヨチヨチ歩きのわたしに、神さまからのプレゼント。
ポーツマスに向かう途中で、変わった橋に出会う。

やっぱり大好きだよ〜海!


港近くのレストランで味噌風味のサーモンをいただく。

ここで事件発生。
夫はロブスターサンドを注文したのだが、メニューを見ると「時価」と書かれている。
普段なら絶対に選ばないので、多分値段を確認したのだなと思っていた。
食べ始めてすぐに、そのロブスターの一欠片を食べこぼしてしまい足元に落ちた。
素知らぬふりして無視する夫に、「今それで3ドル損したんちゃう」と皮肉を言うと、ふふんと鼻であしらわれた。
食べ終わってレシートを見た夫の顔がみるみる青ざめていったので、びっくりしていろいろ尋ねてもピクリとも動かない。
しばらくしてレシートを取り上げて見てみると、夫が食べたロブスターサンドが42ドルになっている。
えっ😰
今度はわたしがかたまる番だ。
けれども可笑しくなって大笑いした。
「いやあ、さっき落ちたアレ、3ドルどころか6ドルはしたな。拾て食べとくべきやったな」と、トドメを刺すのも怠らない😅
人生は学ぶことだらけだ。

気持ちを取り直して食後の散歩。

面白い楽器を演奏しているおじさん。

面白いギターを売ってるお店。

ヨチヨチ歩きでポーツマスの町を散策する。



地図を見るとメイン州にも断崖が見られる海岸があるらしく、またまた岩見たさに車を走らせる。

地元の人たちだけが楽しめる浜辺。

どうやらわたしが思い描いている断崖よりもかなりちっちゃな規模のようだ。

だけどゴツゴツした岩があちこちにあってうっとり…。





海から少し離れると可愛い教会に出会った。

お庭を拝見。



そしてまた海に戻る。




旅の最後の夕飯を食べに町に戻ると、どこからかブラスバンドの演奏が聞こえてきた。

地元のブラスバンドが、コロナ禍に見舞われてからの1年間ずっと中止されていた演奏会を、今日やっと開くことができたと言っていた。



町から小さな橋を渡って離れ小島に到着。

タグボート付きのでっかい船がゆっくりと目の前を横切っていく。

昨日はあんなにいい天気だったのに、最終日は朝から大雨。

ニュージャージーに近づくにつれて晴れてきた。

この橋を渡るとニュージャージー。

色々あったけど、無事に家に戻れた。
夫はもう2度と「時価」のロブスターは注文しないだろうし、わたしはもう2度と「一瞬でも躊躇」したことはやらないだろう。
っていうか、斜め片足飛び降りなんてすんなよな、と今も自分を責めている。
そのせいで旅の計画の半分は変になってしまったから、それが本当に申し訳なくてぐずぐずと落ち込んだのだけど、こういう時の夫はなぜかサバサバしていて、事故で傷ついた上に謝らなくていいと言って一つの文句も口にしなかった。
普段は人の何倍も文句言う人なんだけどな😅
あ、これはナイショナイショ😜

今回の旅で、コロナ禍がほとんど終わったような感じになっている町が多かったことが印象的だった。
家に戻ると、夫の患者さんの間で、PCR検査で陽性反応が出た人や、新型コロナウイルスに感染したかもしれないような症状を訴える人がちらほらと出てきた。
わたしの生徒の家族も濃厚接触をしたので検査を受けた。
かなり少なくなって100人台にまで下がっていたニュージャージー州の1日の新規感染者の数が、今日は500人台にまで上がっていた。
デルタ株が原因かもしれないけれど、ワクチン接種完了者が60%近くにまで上がっているのに、この増え方はやはり感染防止対策を解除し過ぎたのかもしれない。
それでもまだマスク着用率は、今回旅した州に比べるとかなり高い。
まだまだ終わりは見えないんだな、と思う。残念だけど。
コメント (2)
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米国「『トランプ政権ではない』&『ひとまずコロナ禍落ち着きました』独立記念日お祝いディナー」事情

2021年07月06日 | 米国○○事情
草引き恐るべし!
たった1日、だからいっぺんにやってしまおうとしたからなんだけど、多分4時間以上中休み無しで草を抜いた。
抜きやすいものもあれば、両手で引っ張ってもなかなか抜けない頑固なのもあった。
園芸作業用の手袋をつけていたけど、作業の終盤には指先がかなり痛くなっていた。
でも、次の日の朝、床に直接置いたベッドから立ち上がろうとした時、まず膝が痛くて立ち上がれなかったのに驚いた。
え?っと思って体制を整え直し、もう一度立ち上がろうとしたら、膝はもちろん太ももやふくらはぎ、腰や背中や肩や腕にも痛みがあって、すぐ近くの椅子を頼りに少しずつ体を起こさなければならなかった。
指先も異常に痛いのでよくよく見ると、爪の先っぽ(といっても深爪ギリギリまで切ってあるのだけど)が皮膚から少しだけ剥がれている。
おぉごめんごめんと心の中で言いながらくっつくように押しつけると、ぎゃっと言いたくなるほどの痛みだ。
一体わたしは何をしたというのだ…。
たった一回の草引きでどうしてここまでボロボロになってしまうのだ。
こんなに弱かったのか?
ものすごくショックだったのだけど、夫にバレたらまたやり過ぎたのかと呆れられるのが嫌で虚勢を張る。
それになんといっても、ずっと前から会わせたかった友人カップル二組を招いて、「トランプ政権ではない独立記念日」&「ひとまずコロナ禍落ち着きました」祝いディナーの準備をしなければならないのだ。
くたばっている場合ではない。

ぐずぐず天気のはずが、空気がどんどん乾いてきて、雲の間から青空が見え始めた。
部屋の中で食べるか外で食べるかを様子見していた夫が、これだったら外でも大丈夫だろうと、蚊帳付きのテントを張って中に6人用のテーブルと椅子を入れた。
夫は庭の芝を刈り、家の前の垣根を整え、昨日からインド風ヨーグルトソースに漬け込んであったチキンドラムをバーベキューコンロで焼く。
わたしは家の中の掃除をし、ちらし寿司と最近ハマっているきのこ料理を作る。
餅をついて粒あんを炊く、というのもあったんだけど、身体中が痛くてやる気が失せた。
なので昨日買っておいたオーガニックの巨大スイカをデザートにすることにした。

ちらし寿司の具は自家製干し椎茸とニンジンとサヤエンドウだけ…トホホ。

ホールフーズで買ったオーガニックのキノコセット。この黄色いのはタモギ茸かな?

エステラが写真に撮っておいてくれた。


きのこを先に素揚げして、そこにホワイトワインビネガーとオリーブオイル、アンチョビとクルミと塩胡椒で和えるだけ。

ちなみに上の水菜も下のサラダ菜も菜園からの採ってきて手で千切っただけ😅


テントの中で話に花が咲き、気がついたらお互いの顔が見えにくいほどに薄暗くなっていた。
と、その時、誰かが「あっ!」と叫んだ。
目を凝らして指を差す方を見てみると、でっかいラスカル、もといアライグマがのっしのっしと歩いているではないか。
しかもこちらに向かって?!
夫がテントから出て追い払おうとしても、一向にたじろぐ様子が無い。
夫は酒に酔って気が大きくなっているので危ない。
みんなでテントに戻して様子を見ていると、あらら!ちっちゃいのがいきなり姿を現したかと思うと、また一匹、またまた一匹と、わたしたちが見ている目の前に現れては庭の奥に走り去って行く。
合計6匹のアライグマ一家を、「Oh, another one!」と叫びながら大笑いして見送った。
本日最大のパフォーマンスだ。
それにしても危なかった。
大人のアライグマが夫の威嚇にも怯まずに留まったのは、きっと子どもたちを守ろうとしたからだ。

家の中に戻り、それからまたわいわいと盛り上がる。
マスクをせずに、同じカウチに隣り合わせに座っておしゃべりする。
この1年半の間できなかったこと楽しめなかったことだ。
しみじみと嬉しくなった。
いつまで続くのかは誰にもわからないけれど、試行錯誤しながら修羅場を超えてきたことで得たノウハウと、国や州がいざという時は本気で助けてくれる事を知った今は、何も知らなかった去年よりは落ち着いている。
ワクチンを打っても油断はできない、これで終わりではない、多分数年は続く。
わかっているけどとにかく今夜は楽しもう。
独立記念日を祝う花火がドンドンと上がり始めた。
みんなその時まで花火のことをすっかり忘れていた。
去年は花火が上がったのかどうかも覚えていない。
今年の独立記念日はどこもきっと、去年の分も楽しもうと盛り上がっただろう。
おめでとう、アメリカの誕生日。
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