毎年のように、というかスカイプや電話などで話すたびに、
「生きていてもつまらない。生きていてもしようがない。今年中に死んでしまえたらいいのに」などと言い続けていた母だが、
70歳を過ぎたあたりから、それまで閉ざしていた外部とのつながりを持ち始め、ちょこちょこと友人などもでき、家の外に出ることが多くなり、それとともに、死にたい病が失せていった。
今熱中しているのがこれ、パターゴルフ。
負けず嫌いでこだわる母は、腕前がめきめき上達して、チームの花形&最高齢プレーヤーなのだそうだ。
最近は、夫婦ふたりでやることもあるそうで、わたしもそれに入れてもらうことにした。
場所は、車で10分ぐらい走ったところにある河川敷。
母は協会のメンバーなので、いつでも無料でプレーができる。

へっぴり腰&素人丸出しのわたし。道具もだから、当たりやすいようにと、グランドゴルフの道具とボールで…とほほ。

9ホールのコースをふた回りし終えようとしていたら、いきなり空にわらわらと浮かび上がってきたものが。

なになになに?

気球だ!





数えると30近く浮かんでいる。
それらがどんどん、わたしたちの方に近づいてきて、えぇ~!住宅地に降りていくぅ~!


スイカ?

わたしたちが車で戻る頃には、全員が着地体制に。




なるほど、河川敷に着地点が設けられたいた。


後で聞いたことだが、気球の全国大会が行われていたそうな。
思いもよらなかったハプニングに大興奮!
滞在4日目、母の奢りで合歓の郷に旅行した。
合歓の郷といえばつま恋同様、ヤマハで教えていた13年の間、JOCで優秀な生徒を担当している講師として、もっと知識と経験を積むようにと、何度となくしごかれた場所だ。
費用は全部ヤマハ持ちで、宿泊と食事には贅沢をさせてもらったけれど、研修はとても厳しくて、ギリギリまで詰め込まれたスケジュールをこなすのに往生した。
もうそれも何十年も前のことで、今や合歓の郷といえばリゾートホテルやゴルフ場が楽しめる、解放された場所になったようだ。
大阪からやって来た弟&福ちゃんと、鵜方の駅で合流し、母と義父とわたしの、それから弟と福ちゃんの泊まる、それぞれの部屋に入った。

なんとまあ広々とした、そして海を見渡せる大きな窓がついた、すてきな部屋であることよ!

あいにく滞在中の二日ともに、曇り後雨、曇り時々雨の予報が出ているので、とにかく雨が降るまでにゴルフ!ということで、着いた早々フロントでパターとボールを貸してもらい、コースにゴー!
強烈な冷たい風が吹き荒れていたので、ありったけの物を纏い、けれどもしっかりリードをとる母。

ゴルフは未経験の豊を、ちょっとだけ経験者の福ちゃんが見守る。

すずめさん。

それにしても寒い、寒すぎる。
けれども、9ホールの使用料が900円というバカ高い金額が、期間限定で半額になっていて、それでも高いと文句を言う母は、素知らぬ顔をして18ホールしようと言う。
寒いけれども楽しいし、ちょっとずつ上達してきたし、他に誰もいなくて貸切状態なので、みんなは文句無しにそれに従う。


ああ楽しかった!帰ろ帰ろ。

ここもゆったりした玄関ロビー。

夕焼けがきれいに見える浜辺に案内してもらった。

太陽さん、さようなら。また明日。

空にはぽっかりお月さま。


日が暮れた。

やっぱり寒いので、ホテルが貸してくれた防寒着を着て、いつものノリを見せてくれる弟と福ちゃん。その後ろで密かにストレッチする義父。

部屋から見えた日の出。



懐かしいミュージックキャンプの看板が見えた。

そして再びパターゴルフへ。
今回はさらに進化して、9ホール分の料金で18ホールを、そして近くのゴルフ場の施設でお昼ご飯を食べた後もう一回遊んでから戻る計画。

正直に(というか、正しく)9ホールだけして帰る若者のグループを尻目に、ガハハガハハと大笑いしながら遊ぶわたしたち。
ホテルさん、すみませんでした。
ヨガを楽しむテントが丘の向こうに見える。

雀じゃない鳥さん。

今にも降り出しそうな空模様の下、ゴルフを楽しむ人がけっこういた。

伊勢志摩サミットのお知らせ看板。

楽しい時間はあっという間に過ぎ、大阪に戻る福ちゃんを見送りに鵜方駅まで行くと、駅の裏口の近くの家の前にこんな看板があるのを弟が見つけた。

弟は、阪神・淡路大震災の時に、働いていた会社のビルが壊れ、建設業に再就職した。
それから今までの20年間、ずっとその仕事を続けてきたのだが、きつい作業がたたり、足腰に強い痛みが生じるようになった。
タバコやお酒の量も多かったからか血圧も高い。
いつまでも続けられる仕事ではないからと、母もわたしもここ最近とても心配していたところ、福ちゃんが働く介護施設を経営する会社の、管理人としての職をいただけることになったと聞き、ホッと一安心。
だから今回は、ちょうど転職のための休暇中ということで、弟もわたしと一緒に、母のところで3泊できるという、嬉しいプレゼントになった。
鵜方からの帰り道、磯部町の、天の岩戸があるという所に連れて行ってもらった。

紅葉が少しだけ、他の所よりは進んでいるようだ。





鳥居と灯篭を通り過ぎ、


そろそろ近づいてきた。

この階段を上り、

階段のすぐ下にある小さな滝に、寄り道をしている弟。そういや彼はチビの頃から、寄り道王と呼ばれていたな。


またまた鳥居を通り抜け、

え?あそこ?


いやあ、ちょっと小さ過ぎるような気がしなくもないが…。

その穴から流れ落ちる水は、名水百選に選ばれているそうな。

さらに階段を上って、お賽銭をあげに。

前に一度来ているし、階段は上りたくないからと、下で待っていた母は案の定、体操に励んでいる。

御光の中で。

母81歳、息子55歳。

あたり一面がしっとりしているからか、岩肌にはいろんなコケが生えている。

始まったばかりの紅葉。

旅行から戻った翌日は、親友のお母さんのお見舞いに、弟が運転する車に乗って出かけた。
母にとっても休息日になる。
お見舞いに行く前に、通子さんと孝さんに会いに、彼らの家にお邪魔した。

何と言っても通子さんは、豊の幼少時代を知る、そしてその後50年もの間、一度も会っていない人なのだ。
びっくりするだろうなあとニヤニヤしながら想像していたら、なんとなんと、数年前に、何の用事だったかはすっかり忘れたが、福ちゃんと二人でやって来たのだそうだ。
邸宅が建つ丘から。

親友のお母さんは、はじめわたしのことを「かおりちゃん」と呼んで、付き添いのお父さんから大いにツッコミを入れられていた。
そのうちに思い出してくれたのか、「あんたも苦労したなあ」という、会ったらいつも言ってくれた言葉をかけてくれた。
おばちゃんこそ苦労しはったんやから、今こそおっちゃんに存分に甘えて、優しいしてもろてや。
また会えることを祈りながら、すっかり小さくなったおばちゃんの手を握り、さよならをした。
どうせここまで来たんやからと、子どもの頃の数年間と最初の結婚の13年間を暮らした町に寄り、好物の丁稚ようかんを買いに行った。
その帰り道、弟の親友が営む月ヶ瀬の梅の名所にも寄り道した。


名前通りの、素晴らしい見晴らし。


その昔、二回ほど観にやって来た記憶がある梅畑。満開の景色とその頃のわたしの姿が、脳裏に浮かんでは消えていく。

親友の家が建てた金毘羅さん。


すっかり様変わりした銀座通り。

三重の滞在3日目に、今まで暖かすぎて気持ちが悪いほどだった気温がぐっと下がり、やっといつもの11月末の寒さがやってきた。
けれどもそれまでが暖か過ぎただけに、そのギャップが大きくて、寒さがギリギリと身にしみる。
母は倹約の鬼で、お湯というものをとても大事に使う。
灯油ストーブを使う季節になると、ストーブをつける=お湯を沸かすということになり、それで沸いたお湯はすぐさま保温ポットに移される。
そのお湯は、飲むためだけではなく、顔や手を洗う時には桶に入れ、お水と混ぜて使う。

母の家では基本的に、蛇口からお湯が出てくるということは無い。
食器を洗うのも、冬でも水だ。
ここの水はなぜか、冬は温かく、夏は冷たいと母は言う。
そうかなあ…と疑っていたが、わたしの手にも温かく感じられ、だからわたしも洗い物を水で済ます。
そしていつも同じことを思う。
こんなふうに暮らす人がたくさんいるようになると、地球は健康を取り戻せるのかもしれないと。
そして普段の自分のなり振りを省みる。
弟と母と、家族3人で、近所のモールに買い物に行く。
欲しかったレッスン用の鉛筆と、妊婦さん用のタイツ(締め付けられるのが大の苦手なわたしはLLでも我慢ができない)と、おばちゃんパンツを卒業するべく新しいもの(といっても似たようなものだが)を買った。
母の一押し、米と混ぜる雑穀と伊勢ひじき、そして留守番をしている夫への土産にと、三重の地酒を母が買ってくれた。
弟からもらった入浴剤やドロップ、録画してくれたDVDの数々、湿布剤などのお土産と共に、なんとかしてカバンに詰め込まねばならない。
気長に買い物に付き合い、荷物を一手に引き受けてくれる弟。
「買い物に付き合うのは苦にならない」と言う。
「自分の興味のある物が売っている店だと、いろいろと見て回るのがめちゃ楽しい」とも言う。
えらい違いだ…いえいえ、誰ととは申しませぬが。
弟は12月から、介護施設の管理人として、入居している人たちの食事を作ったり、室内の掃除をしたり、手続きに必要な書類の作成をしたりする。
すべてが彼にとっては新しく、未経験のものばかり。
55歳の再出発だ。
だからきっと、不安な気持ちが押し寄せてくるのだろう。
でもわたしは信じてる。
彼の優しさと、機転が利く頭、だから上手な料理の腕が、新しい仕事に役立つはずだと。
今まではずっと、まず予定が先にあり、それに従って行動すればよかったけれど、これからは常にハプニングの連続で、未定だらけの中で仕事をしていかなければならないかもしれないけれど、そんなことにはすぐ慣れるだろう。
とにかく自身の体と心をまず大切にして、預かった人たちと良い関係を築いていけるよう、離れた所からではあるけれど、ずっと祈ってるからね。
大阪に戻る弟を見送ると、連日の外出で動き回ったからか、母は疲労困憊の様子。
ごめん、いっつも思いっきり疲れさせてしまってるね。
だから最後の日は、ゆっくりと過ごすことにした。
気温が下がったからか、ちょっぴり秋めいて?きた庭。





義父の趣味の畑。

荷物は結局、母が毎回くれる温泉タオルや薄い毛布なども加わって、一つのカバンには到底入りきれないことが分かり、母の旅行カバンを一つ借りることになった。
初めての両手持ちだ。
まあ、なんとかなるだろう。
大変だけど嬉しい。嬉しいけど大変。
新幹線のプラットホームを、周りの人たちに気遣いながら進む。

成田空港に向かう途中、バスが神田川の上を走った。

南こうせつの「あなたはもう忘れたかしら」と歌う声が強烈に蘇ってきて、それからしばらくの間、『神田川』の歌を繰り返し口ずさみながら、その頃の自分を思い出していた。
成田空港から近くのホテルに行った頃にはもうすっかり夜で、チェックインしていると、やはりここでも中国からの観光客が大勢泊まっていることに気づいた。
前回、夫と二人で、名古屋空港近くの同じ系列のホテルに泊まった時、朝食を食べに降りて行くと、あまりに大勢の中国人観光客が食事をしていて、あわや朝食抜きになりかけた経験があったので、
少し失礼かと思いつつ、フロント係の人に、「朝食は何時頃が落ち着いて食べられるでしょうか」と尋ねてみた。
すると、「6時半から7時半ぐらいまでは大変に混み合うと思われますので、できれば8時頃においでいただければ」と答えてくれた。
家に戻ってからこの話をすると、「ちょっと差別的なんじゃないか」と夫に言われたが、名古屋での経験がショックだったので、これは致し方がないと思う。
空港から旅立つ直前にもう一度、母と義父にお礼の電話をかけた。
年々、旅立つ時に感じる寂しさと、そこはかとない心残りが、色濃くなっているような気がする。
でもきっと、母はこう言うだろう、いつものように。
「自分で決めたんやから、その通りに生きていったらええのとちゃうの。あんたがアメリカに引っ越すと聞いた時から、あんたはもういないと思うことにしたから」
自己管理のための体操と栄養補給を、自分で考え工夫して積極的に取り入れ、それを延々と続ける81歳。
その超オリジナルな体操のひとつひとつを、隣のベッドでやって見せてくれる母の真似をした。
全部やり終えるのに15分。
室温が下がる真冬になると、ちょっと厳しい気もするけれど、わたしも見習って頑張るね。
また来年。
「生きていてもつまらない。生きていてもしようがない。今年中に死んでしまえたらいいのに」などと言い続けていた母だが、
70歳を過ぎたあたりから、それまで閉ざしていた外部とのつながりを持ち始め、ちょこちょこと友人などもでき、家の外に出ることが多くなり、それとともに、死にたい病が失せていった。
今熱中しているのがこれ、パターゴルフ。
負けず嫌いでこだわる母は、腕前がめきめき上達して、チームの花形&最高齢プレーヤーなのだそうだ。
最近は、夫婦ふたりでやることもあるそうで、わたしもそれに入れてもらうことにした。
場所は、車で10分ぐらい走ったところにある河川敷。
母は協会のメンバーなので、いつでも無料でプレーができる。

へっぴり腰&素人丸出しのわたし。道具もだから、当たりやすいようにと、グランドゴルフの道具とボールで…とほほ。

9ホールのコースをふた回りし終えようとしていたら、いきなり空にわらわらと浮かび上がってきたものが。

なになになに?

気球だ!





数えると30近く浮かんでいる。
それらがどんどん、わたしたちの方に近づいてきて、えぇ~!住宅地に降りていくぅ~!


スイカ?

わたしたちが車で戻る頃には、全員が着地体制に。




なるほど、河川敷に着地点が設けられたいた。


後で聞いたことだが、気球の全国大会が行われていたそうな。
思いもよらなかったハプニングに大興奮!
滞在4日目、母の奢りで合歓の郷に旅行した。
合歓の郷といえばつま恋同様、ヤマハで教えていた13年の間、JOCで優秀な生徒を担当している講師として、もっと知識と経験を積むようにと、何度となくしごかれた場所だ。
費用は全部ヤマハ持ちで、宿泊と食事には贅沢をさせてもらったけれど、研修はとても厳しくて、ギリギリまで詰め込まれたスケジュールをこなすのに往生した。
もうそれも何十年も前のことで、今や合歓の郷といえばリゾートホテルやゴルフ場が楽しめる、解放された場所になったようだ。
大阪からやって来た弟&福ちゃんと、鵜方の駅で合流し、母と義父とわたしの、それから弟と福ちゃんの泊まる、それぞれの部屋に入った。

なんとまあ広々とした、そして海を見渡せる大きな窓がついた、すてきな部屋であることよ!

あいにく滞在中の二日ともに、曇り後雨、曇り時々雨の予報が出ているので、とにかく雨が降るまでにゴルフ!ということで、着いた早々フロントでパターとボールを貸してもらい、コースにゴー!
強烈な冷たい風が吹き荒れていたので、ありったけの物を纏い、けれどもしっかりリードをとる母。

ゴルフは未経験の豊を、ちょっとだけ経験者の福ちゃんが見守る。

すずめさん。

それにしても寒い、寒すぎる。
けれども、9ホールの使用料が900円というバカ高い金額が、期間限定で半額になっていて、それでも高いと文句を言う母は、素知らぬ顔をして18ホールしようと言う。
寒いけれども楽しいし、ちょっとずつ上達してきたし、他に誰もいなくて貸切状態なので、みんなは文句無しにそれに従う。


ああ楽しかった!帰ろ帰ろ。

ここもゆったりした玄関ロビー。

夕焼けがきれいに見える浜辺に案内してもらった。

太陽さん、さようなら。また明日。


空にはぽっかりお月さま。


日が暮れた。

やっぱり寒いので、ホテルが貸してくれた防寒着を着て、いつものノリを見せてくれる弟と福ちゃん。その後ろで密かにストレッチする義父。

部屋から見えた日の出。



懐かしいミュージックキャンプの看板が見えた。

そして再びパターゴルフへ。
今回はさらに進化して、9ホール分の料金で18ホールを、そして近くのゴルフ場の施設でお昼ご飯を食べた後もう一回遊んでから戻る計画。

正直に(というか、正しく)9ホールだけして帰る若者のグループを尻目に、ガハハガハハと大笑いしながら遊ぶわたしたち。
ホテルさん、すみませんでした。
ヨガを楽しむテントが丘の向こうに見える。

雀じゃない鳥さん。

今にも降り出しそうな空模様の下、ゴルフを楽しむ人がけっこういた。

伊勢志摩サミットのお知らせ看板。

楽しい時間はあっという間に過ぎ、大阪に戻る福ちゃんを見送りに鵜方駅まで行くと、駅の裏口の近くの家の前にこんな看板があるのを弟が見つけた。

弟は、阪神・淡路大震災の時に、働いていた会社のビルが壊れ、建設業に再就職した。
それから今までの20年間、ずっとその仕事を続けてきたのだが、きつい作業がたたり、足腰に強い痛みが生じるようになった。
タバコやお酒の量も多かったからか血圧も高い。
いつまでも続けられる仕事ではないからと、母もわたしもここ最近とても心配していたところ、福ちゃんが働く介護施設を経営する会社の、管理人としての職をいただけることになったと聞き、ホッと一安心。
だから今回は、ちょうど転職のための休暇中ということで、弟もわたしと一緒に、母のところで3泊できるという、嬉しいプレゼントになった。
鵜方からの帰り道、磯部町の、天の岩戸があるという所に連れて行ってもらった。

紅葉が少しだけ、他の所よりは進んでいるようだ。





鳥居と灯篭を通り過ぎ、


そろそろ近づいてきた。

この階段を上り、

階段のすぐ下にある小さな滝に、寄り道をしている弟。そういや彼はチビの頃から、寄り道王と呼ばれていたな。


またまた鳥居を通り抜け、

え?あそこ?


いやあ、ちょっと小さ過ぎるような気がしなくもないが…。

その穴から流れ落ちる水は、名水百選に選ばれているそうな。

さらに階段を上って、お賽銭をあげに。

前に一度来ているし、階段は上りたくないからと、下で待っていた母は案の定、体操に励んでいる。

御光の中で。

母81歳、息子55歳。

あたり一面がしっとりしているからか、岩肌にはいろんなコケが生えている。

始まったばかりの紅葉。

旅行から戻った翌日は、親友のお母さんのお見舞いに、弟が運転する車に乗って出かけた。
母にとっても休息日になる。
お見舞いに行く前に、通子さんと孝さんに会いに、彼らの家にお邪魔した。

何と言っても通子さんは、豊の幼少時代を知る、そしてその後50年もの間、一度も会っていない人なのだ。
びっくりするだろうなあとニヤニヤしながら想像していたら、なんとなんと、数年前に、何の用事だったかはすっかり忘れたが、福ちゃんと二人でやって来たのだそうだ。
邸宅が建つ丘から。

親友のお母さんは、はじめわたしのことを「かおりちゃん」と呼んで、付き添いのお父さんから大いにツッコミを入れられていた。
そのうちに思い出してくれたのか、「あんたも苦労したなあ」という、会ったらいつも言ってくれた言葉をかけてくれた。
おばちゃんこそ苦労しはったんやから、今こそおっちゃんに存分に甘えて、優しいしてもろてや。
また会えることを祈りながら、すっかり小さくなったおばちゃんの手を握り、さよならをした。
どうせここまで来たんやからと、子どもの頃の数年間と最初の結婚の13年間を暮らした町に寄り、好物の丁稚ようかんを買いに行った。
その帰り道、弟の親友が営む月ヶ瀬の梅の名所にも寄り道した。


名前通りの、素晴らしい見晴らし。


その昔、二回ほど観にやって来た記憶がある梅畑。満開の景色とその頃のわたしの姿が、脳裏に浮かんでは消えていく。

親友の家が建てた金毘羅さん。


すっかり様変わりした銀座通り。

三重の滞在3日目に、今まで暖かすぎて気持ちが悪いほどだった気温がぐっと下がり、やっといつもの11月末の寒さがやってきた。
けれどもそれまでが暖か過ぎただけに、そのギャップが大きくて、寒さがギリギリと身にしみる。
母は倹約の鬼で、お湯というものをとても大事に使う。
灯油ストーブを使う季節になると、ストーブをつける=お湯を沸かすということになり、それで沸いたお湯はすぐさま保温ポットに移される。
そのお湯は、飲むためだけではなく、顔や手を洗う時には桶に入れ、お水と混ぜて使う。

母の家では基本的に、蛇口からお湯が出てくるということは無い。
食器を洗うのも、冬でも水だ。
ここの水はなぜか、冬は温かく、夏は冷たいと母は言う。
そうかなあ…と疑っていたが、わたしの手にも温かく感じられ、だからわたしも洗い物を水で済ます。
そしていつも同じことを思う。
こんなふうに暮らす人がたくさんいるようになると、地球は健康を取り戻せるのかもしれないと。
そして普段の自分のなり振りを省みる。
弟と母と、家族3人で、近所のモールに買い物に行く。
欲しかったレッスン用の鉛筆と、妊婦さん用のタイツ(締め付けられるのが大の苦手なわたしはLLでも我慢ができない)と、おばちゃんパンツを卒業するべく新しいもの(といっても似たようなものだが)を買った。
母の一押し、米と混ぜる雑穀と伊勢ひじき、そして留守番をしている夫への土産にと、三重の地酒を母が買ってくれた。
弟からもらった入浴剤やドロップ、録画してくれたDVDの数々、湿布剤などのお土産と共に、なんとかしてカバンに詰め込まねばならない。
気長に買い物に付き合い、荷物を一手に引き受けてくれる弟。
「買い物に付き合うのは苦にならない」と言う。
「自分の興味のある物が売っている店だと、いろいろと見て回るのがめちゃ楽しい」とも言う。
えらい違いだ…いえいえ、誰ととは申しませぬが。
弟は12月から、介護施設の管理人として、入居している人たちの食事を作ったり、室内の掃除をしたり、手続きに必要な書類の作成をしたりする。
すべてが彼にとっては新しく、未経験のものばかり。
55歳の再出発だ。
だからきっと、不安な気持ちが押し寄せてくるのだろう。
でもわたしは信じてる。
彼の優しさと、機転が利く頭、だから上手な料理の腕が、新しい仕事に役立つはずだと。
今まではずっと、まず予定が先にあり、それに従って行動すればよかったけれど、これからは常にハプニングの連続で、未定だらけの中で仕事をしていかなければならないかもしれないけれど、そんなことにはすぐ慣れるだろう。
とにかく自身の体と心をまず大切にして、預かった人たちと良い関係を築いていけるよう、離れた所からではあるけれど、ずっと祈ってるからね。
大阪に戻る弟を見送ると、連日の外出で動き回ったからか、母は疲労困憊の様子。
ごめん、いっつも思いっきり疲れさせてしまってるね。
だから最後の日は、ゆっくりと過ごすことにした。
気温が下がったからか、ちょっぴり秋めいて?きた庭。





義父の趣味の畑。

荷物は結局、母が毎回くれる温泉タオルや薄い毛布なども加わって、一つのカバンには到底入りきれないことが分かり、母の旅行カバンを一つ借りることになった。
初めての両手持ちだ。
まあ、なんとかなるだろう。
大変だけど嬉しい。嬉しいけど大変。
新幹線のプラットホームを、周りの人たちに気遣いながら進む。

成田空港に向かう途中、バスが神田川の上を走った。

南こうせつの「あなたはもう忘れたかしら」と歌う声が強烈に蘇ってきて、それからしばらくの間、『神田川』の歌を繰り返し口ずさみながら、その頃の自分を思い出していた。
成田空港から近くのホテルに行った頃にはもうすっかり夜で、チェックインしていると、やはりここでも中国からの観光客が大勢泊まっていることに気づいた。
前回、夫と二人で、名古屋空港近くの同じ系列のホテルに泊まった時、朝食を食べに降りて行くと、あまりに大勢の中国人観光客が食事をしていて、あわや朝食抜きになりかけた経験があったので、
少し失礼かと思いつつ、フロント係の人に、「朝食は何時頃が落ち着いて食べられるでしょうか」と尋ねてみた。
すると、「6時半から7時半ぐらいまでは大変に混み合うと思われますので、できれば8時頃においでいただければ」と答えてくれた。
家に戻ってからこの話をすると、「ちょっと差別的なんじゃないか」と夫に言われたが、名古屋での経験がショックだったので、これは致し方がないと思う。
空港から旅立つ直前にもう一度、母と義父にお礼の電話をかけた。
年々、旅立つ時に感じる寂しさと、そこはかとない心残りが、色濃くなっているような気がする。
でもきっと、母はこう言うだろう、いつものように。
「自分で決めたんやから、その通りに生きていったらええのとちゃうの。あんたがアメリカに引っ越すと聞いた時から、あんたはもういないと思うことにしたから」
自己管理のための体操と栄養補給を、自分で考え工夫して積極的に取り入れ、それを延々と続ける81歳。
その超オリジナルな体操のひとつひとつを、隣のベッドでやって見せてくれる母の真似をした。
全部やり終えるのに15分。
室温が下がる真冬になると、ちょっと厳しい気もするけれど、わたしも見習って頑張るね。
また来年。