5月11日の朝、義父が亡くなりました。
享年81歳、来月6月の82歳の誕生日を迎えることはできませんでした。
彼が数年前に癌を発症してからの闘病生活の介助、昨年末に肺炎を発症してからの看護と介護は、長年連れ添った義母が一手に引き受けていましたが、在宅ホスピスケアが始まってからは流石に一人では無理になり、最期の2ヶ月間は夜間ケアを引き受けてくれる看護師を雇いました。
息子であり、鍼灸や漢方の治療ができる夫は、毎週末の3日間はペンシルバニアにある実家に通い、父親の容態に合わせて看護を続けていました。
義父の容態は日々変化し、調子が良かったり悪かったり、もう危ないかと思ったらまだまだ大丈夫と思ったり。
施設や病院には入りたくないという彼の思いを尊重するには、介護する家族の者が、さまざまな医療機器をレンタルしてはそれらの使い方を学んだり、口から食べてもらえる食事の工夫や空調管理、床ずれ防止の方法などを身に付けなければなりません。
それに義父は紙オムツの使用が本当に嫌だったので、自分で用を足そうと最後までもがいていました。
そもそも父は、家族にさえ、くつろいだ服装を見せないような人でした。
パジャマ姿はもちろんのこと、どんなに暑い日でも下着やカジュアルな部屋着などで過ごすこともなく、ショートパンツでさえ履かなかったので、この30年、わたしは義父の太ももはもちろん脛も素足も見たことがありませんでした。
あ、そういえば、ハワイに旅行した時だけ履いていたかもしれません、ショートパンツ。
でも、絶対に泳がなかったので、水着姿も見たことがありません。
なので自分の意思でおしっこを出さなかったり、うんちを我慢してしまうようなこともありましたし、もう自分では立てないのに立とうとして、女性の看護師さんを困らせたりもしたようです。
最後の最後まで自分らしくあろうとした義父は、家族が誰もいなくなった日の朝に、いつものように食事をし、付き添いの看護師さんと一言二言言葉を交わし、その後静かに息を引き取りました。
小学校の頃からの知り合いで、中学校高校とお互いを気に留めながら過ごし、大学時代から恋人になり、結婚をし、その後60年を義父と共に暮らしてきた義母は、彼の闘病をずっと支えてきました。
義父は癌の発病後数年で視力をほとんど失い、生活の中の事細かな部分で助けが必要となり、服の着替えから靴を履くことはもちろん、会議への出席やメールの読み聞かせなどの事務的な補助や食事の管理など、義母にとっては一日中休む間も無い状態が何年も続いていました。
ベッドに寝たきりになってからは、そういう類の世話はしなくてもよくなりましたが、今度は命の存続に関わる事態になったので、義父の症状が良くなる食べ物やサプリメントを与えようと奮闘していました。
主任看護師や義母、そして夫が見る限り、これは長期戦になるんじゃないかと考え始めていた今月の初めに、義母はここらで一度休みを取ろうと決心し、家から4時間ほど車で走ったところにあるリゾートに出かけることにしました。
それを義父に伝え、実に6、7年ぶりに夫の元から離れ、独りの時間を過ごしに出かけたその二日後の朝、台湾人の鍼灸師に施術をしてもらっている最中に訃報が届いたのでした。
それを義父に伝え、実に6、7年ぶりに夫の元から離れ、独りの時間を過ごしに出かけたその二日後の朝、台湾人の鍼灸師に施術をしてもらっている最中に訃報が届いたのでした。
その場に居合わせた鍼灸師は、ショックでうまく息ができなくなった義母が落ち着くまで寄り添ってくれたそうです。
義父らしいお別れだったなあと、今ではしみじみそう思います。
義父はハーシー社の重役を務めた後、存続が危ぶまれていた保険会社の再建などに活躍し、さらには非営利団体や官民団体の役員を通して芸術への並外れた貢献と支援を続け、数々の表彰を受けました。
それらの活動を通して彼と関わった人たちは皆、口を揃えてこう言います。
「彼がいなければ今日の〇〇は存在しなかった」
「彼はとても物静かだが、仕事は受動的でなく、物事をきちんと把握し、失敗を許さなかった」
「彼は慈善活動を通じて、謙虚で静かな人柄を保った」
「既存のアーティストや古典的な作品に資金を提供するのではなく、新しいものを積極的に求めることに並々ならぬ情熱を持っていた」
「人生の最後の30年間を、非営利団体のリーダーシップと非営利団体内のリーダーの息性に捧げた」
彼のお悔やみ記事は、地元紙の日曜版の3ページ目を全て使って大きく掲載されました。
大々的な表彰式には何回か出席したことがあったので、彼の業績や貢献をわたしなりに理解していたつもりでしたが、彼は本当に偉大な人だったんだなと思います。
彼のような人と出会えたことを、心から感謝したいです。
義父が亡くなった日、夫とわたしは仕事を全てキャンセルし、ペンシルバニアの実家に向かったのですが、途中で義母を出先まで迎えに行くべきだと考え、行き先を母が滞在しているリゾートに変更しました。
結局辿り着いたのは夜の11時。
急遽、数時間だけ寝るためだけに一部屋借りてもらい、翌日の朝早くに、わたしたちを待つ義父の元に戻りました。
義母は自分の胸に手を当て、もうあの体には彼はいない、ここにいるのだからと言って、葬儀屋の人たちが彼のご遺体を家から運び出す際にも見送ることもしませんでした。
先週の始めまで長期戦になると思っていたので何も決まっておらず、先週末は火葬や遺灰の埋葬などの日程を決めることで忙しかったのですが、今はそれらのほとんどの段取りがつきました。
義母を寂しくさせないようにと、夫も一昨日まで実家に留まっていましたが、多分大丈夫だろうとこちらに戻って来ました。
結婚する前の15年間、結婚してからの60年間、本当に長い年月を共に過ごしてきたパートナーでした。
その相方がいなくなった義母の喪失感を、わたしには計り知ることなどできません。
けれども義母は、どんどんとできないことが増え、心底嫌がっていた下の世話を断ることができなくなった夫が、弱々しく手を振りながら、なんとかしてベッドから出ようとする姿を見るにつけ、こんな質の悪い生活を長く続けさせたくないと考えていたようです。
在宅ホスピスという、家族にとっては最も大変な方法を選び、最後まで頑張り抜いた義父と義母。
もうこの舞台は閉じられます。
部屋の主がいなくなったことを敏感に感じ取っている家猫ピーターは、ここで昼寝をすることが増えました。
お義母さんのこと、頼むね、ピーター。