わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

現代の陶芸244(長谷川塑人)

2012-11-25 22:00:01 | 現代陶芸と工芸家達

九谷焼の中で、独自の文様と新たな色を創作し、九谷色絵の世界に新風を吹き込み、色絵磁器に

挑戦し続けているの作家が、長谷川塑人氏です。

1) 長谷川塑人(はせがわ そじん): 1935年(昭和10) ~

  ① 経歴

    1935年 金沢生れます。

    1954年 金沢市立工業高等学校 機械科を卒業し、整備士として名古屋の自動車会社に

          勤務します。

    1956年 陶芸を志し、知人の紹介で九谷焼の梅山陶房に勤め、陶芸家の二代目中村梅山に

           8年間師事し、九谷焼を修行します。

    1964年 金沢市小立野台で独立し、窯を築きます。

          第二十回金沢市創作工芸展に初出品し、金沢市長賞を受賞します。

          石川県産莱工芸展に初出品し、石川県工芸振興会長賞を受賞。

    1965年 朝日陶芸展初出品、初入選 以後三回入選。

    1966年 石川県新進作家陶芸展で最高賞。 涌波へ陶房を移します。

          金沢市創作工芸展で県知事賞。

    1967年 金沢市創作工芸展で県知事賞。

    1968年 石川県産業工芸展で金沢市長賞。 石川県九谷焼新作展で金沢市長賞。

    1969年 第二十六回日本伝統工芸展初入選 以後22回入選します。

          石川県九谷陶磁器新作展で金沢市長賞。

    1970年 第十一回石川の伝統工芸展で奨励賞。 同71年最高賞 同79年同展奨励賞 

          以後、無鑑査出品となります。

    1978年 日本伝統工芸で、奨励賞を受賞します。 

    1979年 第二回伝統九谷美術展で優秀賞 同80年 優秀賞、同89年 石川県伝統九谷展大賞 

    1997年 九谷国際陶芸フェステバルで奨励賞。

           日本伝統工芸展 で優秀賞を授賞(日本工芸会会長賞)。

    1998年 日本伝統工芸展鑑査員になります。

    2002年(妖精文大鉢)、2003年(妖精と鳥文) などの作品で、同工芸展に入選しています。

   個展:グリーン・ギャラリ(東京・南青山、赤坂)、横浜高島屋、大阪阪急百貨店、千葉三越百貨店

       高松三越百貨店などで多数開催しています。  

  ② 長谷川塑人の陶芸

   ) 師匠の中村梅山から直接教わった事は、「土はこうやって揉(も)むがや」という事だけだ

     そうですが、師匠の動作や仕事振りを身近に見て、学びとります。轆轤は師匠が回す足の音に

     耳を澄ませて学びます。夜に自分の轆轤で練習し、更に九谷焼の基礎を学びます。

   ) 独立後の陶房は、金沢刑務所と寺の墓場の間に作り、その寺の住職がつけた名前が

      「塑人」であるとの事です。又、鉄絵銅彩の技法を開拓した人間国宝の陶芸家の田村耕一氏

      (1918~1987年)の指導を得て鉄釉、柿釉、油滴などの研究を始めます。

    ・ 従来、九谷焼ではなかった、もえぎ色に似たオリジナルの色を作り出し、梅の枝を描いた

      湯飲みで大ヒットし、東京へ進出する切っ掛けと成ります。

    ・ 幼い頃より、絵を描く事が好きでしたが、中断していた絵を昭和40年代後半から再開し、

       色絵磁器の仕事に専念します。

       絵付けの作品は、創意と詩情に富んだ独自の世界を表わしています。 

   ) 長谷川の代表的なモチーフの一つの「鳥」は、工房の窓から見えたヒヨドリの飛ぶ姿を見て

      「発見」したとの事です。

    ・ 赤絵鳥文大鉢: 高 12 x 径 49 cm (1992年)

      丸い大鉢に黒い丸い線を五個描き、その中に空を飛ぶ鳥や、止まっている鳥を赤絵で

      描いた作品です。

   ) 「妖精」のシリーズの作品は、友人との会話がヒントになったそうです。

      愛らしい表情で、自由に羽ばたく姿に「陽のエネルギー」が溢(あふ)れています。

     ・ 色絵妖精大鉢: 高 13 x 径 46 cm (1991年)

      濃紺の呉須で、矩形に区切られた中に、赤絵とオレンジ色で描かれた六人の妖精が、

      大空を駆け巡っています。その躍動感は、前記矩形をはみ出して表現されています。

   ) 鳥や妖精以外にも、牡丹色絵大鉢(高 7 x 径 40 cm 1973年)を作っています。

      又、コーヒーカップなど食器類にも、色絵付がされています。

     各地の公共の建物に壁画を制作しています。

       金沢市健康センターロビー(1982年)。片山津矢田屋梅光閣ロビー(1983年)

       金沢市中央公民館彦三館ロビー(陽嬉生々2001年)などです。

次回(杉本貞光氏)に続きます。

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現代の陶芸243(坂本瀧山)

2012-11-23 21:49:47 | 現代陶芸と工芸家達
初代坂本瀧山氏(秀樹)は、大正前期、東京で銀行員をしていたが、当時衰退していた茶陶を制作する
 
伊賀焼を再興すべく、三重県伊賀市(旧阿山町)に移り住み、西山窯を築き伊賀焼を焼き始めます。
 
以後、二代目・三代目瀧山と引き継がれ、重厚かつ気品あふれる、古伊賀(こいが)と呼ばれる伝統の
 
伊賀焼に息吹を吹き込んでいます。
 
1) 二代目坂本瀧山(さかもと ろうざん): 1926年(昭和元年) ~ 2011年(平成23)
  ① 経歴
    
    1926年 東京に生まれる。
 
    1950年 早稲田大学を卒業します。
 
    1952年 伊賀焼継承者、父秀樹の西山窯を継承します。
 
          伊賀上野(あがの)の陶芸家、日根野作三氏(当ブログの現代陶芸85を参照)に
 
          師事します。
 
    1958年全日本産業展入選、以後公募展辞退、制作活動に打ち込む様になります。
 
    1988年 東京京王百貨店新宿店にて毎年個展。
 
    ・ 個展 :名古屋丸栄、阪急百貨店、阪神百貨店、新宿京王百貨店など。
 
   ② 二代目坂本瀧山氏の陶芸。
 
    無釉の「焼締」にこだわり、古伊賀(こいが)焼きの伝統を継承しつつ、豊かな感性で創り出
 
    された豪放ともいえる力強い作風の作品が特徴に成っています。茶陶・古伊賀の世界を今に
 
    表現しています。
 
    ) 焼成は窖窯を用い、伊賀焼を代表する「耳付花入」などは、4~5度(1度が4~5昼夜)
 
       焼く事で、初めて幽玄な景色が現れるとの事です。  
 
    ) 伊賀焼きのイメージは、豪放磊落で、へら目が大胆に施された歪んだ器体ですが、
 
       瀧山氏の作品は、むしろ控えめで奥床しさが見られる作品が多い様です。
 
     ・ 代表的な作品に、「算木花入」があります。角柱に丸い首と口が付いた作品で、表面は
 
       算木の模様が彫り込まれています。 
 
       注: 算木(さんぎ)とは、江戸時代に「そろばん」と伴に使われていた計算道具で、
 
          和算を行う人が使用していた、赤と黒に塗られた拍子木の様な形の計算棒の事です 

2) 三代目坂本瀧山(俊人=としひと): 1960年 ~

  ① 経歴

   1960年 三重県上野市に二代目瀧山氏の長男として生まれます。

   1983年 大学を卒業後、伊賀西山窯の三代瀧山を継承します。

   1984年 伊賀の巨匠、新歓嗣に師事します。

   1987年 日本美術工芸会に入選します。

   1988年 三重県上野市で個展を開催します。

   ・ 東京や大阪のデパートなどで個展を中心に活動を行っています。

  ② 三代目瀧山しの陶芸

   ) 伊賀織部の再興

      幻の「伊賀織部茶碗」が、現在岐阜の美術館に残されているという事を知ります。

      織部が桃山時代に作らせたものの、これまで伊賀で発見された事は無かったそうです。

      彼は、「伊賀織部茶碗」の再興に取り組み、十数年の歳月の研究により、成功させ高い

      評価を得ます。

   ) 窯変の水指、茶盌、香合、香炉などの茶陶の他、茶碗、湯呑みなど日用食器も制作して

       います。

次回(長谷川塑人氏)に続きます。

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現代の陶芸242(澤清嗣、澤克典)

2012-11-21 21:58:04 | 現代陶芸と工芸家達

信楽は瀬戸、備前などと並ぶ日本六古窯の一つで、歴史は鎌倉時代に遡ります。

壷や甕(かめ)、擂鉢(すりばち)等が焼かれ、江戸時代には大量生産に適した登窯が登場し、

最盛期には100基以上の窯が有ったと言われている、一大陶器の生産地で、現在でも多くの陶芸家

と窯を有しています。

その中で、登窯や窖窯による焼締めの大物の壷を作っている人に澤清嗣氏がいます。

1) 澤清嗣(さわ きよつぐ): 1948年(昭和23)~

  ① 経歴

   1948年 滋賀県甲賀市信楽町に生まれる。

   1967年 滋賀県立 信楽高等学校窯業科を卒業します。

   1968年 京都府陶工職業訓練所を修了します。

    同じ年 京都・泉湧寺の窯元(尚泉)に入社します。

   1969年 信楽に戻り、高橋春斎氏に師事しながら作品造りに入ります。

   1981年 登窯と窖窯を築き独立します。

   2001年 滋賀県立陶芸の森「大信楽展」出品が、買上となります。     

   2005年 「日本のやきもの8人展」(新潟十日町)に出品します。

   2006年 「大地の芸術祭・越後妻有アートトリエンナーレ 2006」に出品。
 
     同年 澤清嗣 還暦記念 「六十壷展」を開催します。サン・ギャラリー住恵(名古屋)

   2009年 信楽陶芸の森で、古来の様式をもつ金山窯を使い焼成します。

   2010年 静岡 ギャラリー文夢にて個展。大丸心斎橋本店にて「信楽 澤清嗣 作陶展ー不動ー」

     を開催しています。

   ・ 東京、名古屋、京都、大阪、ニューヨーク等 各地で個展を多数開催しています。

  ② 澤清嗣氏の陶芸

    ) 土は主に窯の近くから採取した、信楽の原土を精製せずに用い、力強い信楽焼を

        生み出しています。

    ) 窖窯や登窯による無釉の焼締めで、土の色と自然釉(灰)の緑、素地や灰が焦げ表面には

       噴出した白い長石が、美しい景色を作り出した作品になっています。

       約1200℃の高温で2~3日以上焼き上げるとの事です。約10分間隔で薪をくべる必要が

       ありますが、「薪は入れ過ぎてもダメ。耳を澄ますことが大事」と述べています。

     ) 作品は大壷などの大物作りを、得意とし、1m以上の作品も手掛けていますが、コーヒー

        カップや信楽徳利、盃、汲出茶碗などの小物も作っています。

        又、個性的でユーモアのある「信楽ツノ盃・笑う馬」の様な作品もあります。      

2) 澤 克典 (さわ かつのり) : 1980年(昭和55) ~

    若手陶芸家の中で、次代を担う旗手として注目される人に、信楽の澤清嗣氏の長男澤克典氏
 
    がいます。
 
    窖窯で焼成された窯変の美い作品や、鈴木五郎氏の弟子として身につけた遊び心が溢れる
 
    織部の器も手掛けています。

  ① 略歴

    1980年 滋賀県甲賀市信楽町に、澤清嗣の長男として生まれます。

    2002年 滋賀県立窯業試験場修了し、鈴木五郎氏に師事します。

    2005年 滋賀県信楽町に独立します。

    2006年 ギャラリー陶園 にて個展。 東京 ギャラリー陶彩 にてグループ展

         大阪 大丸心斎橋店現代陶芸サロン桃青 にて個展(毎年開催)。 名古屋 サンギャラリー

         住恵 にて父子展。 京都 ギャラリーシュマン にて個展

     以後 発表の場は個展を中心に活躍しています。

    2007年 信楽 陶成アートギャラリー 。東京 瑞玉ギャラリー 。 名古屋 サンギャラリー住恵。

    2008年 兵庫 宝塚ギャラリーリラン 。大阪 山木美術 にてグループ展。京都 延寿堂ギャラリー

     ソフォラ 。

    2009年 鎌倉 かまくら陶芯 。 千葉 ギャラリー。  その他、個展グループ展多数。

  ② 澤克典氏の陶芸

   ) 引出技法: 楽焼で行われている「引出黒」の技法と同じ方法です。

     即ち、高温の窯の中から、窯の外へ引き出す事により、独特の綺麗な「黒」や「ビードロ」色を

     発色させます。 窯の雰囲気が酸化の状態では「黒」になり、還元状態では透明感のある

     緑色の「ビ-ドロ」や、トンボ玉などが現れます。

    ) 焼締め以外にも、織部、特に鳴海や弥七田織部に力を入れています。

    今後の活躍が期待される作家です。  

次回(坂本瀧山氏)に続きます。  

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現代の陶芸241(小島憲二)

2012-11-18 21:45:30 | 現代陶芸と工芸家達

伊賀焼は、三重県伊賀市(旧阿山町)で焼かれている陶器及び器(せっき)です。 

 桃山時代の天正年間後期に、伊賀領主となった筒井定次が、阿山の槙山窯にて、茶の湯に

 用いる為の茶壺、茶入、花入、水指などを焼き始めたと言われています。

1) 小島憲二(こじま けんじ): 1953年(昭和28) ~

  ① 経歴

   1953年 愛知県知多市生まれます。

   1972年 愛知県立 常滑高校窯業科を卒業し、伊賀に移り作陶を始めます。(1年間)

   1973年 「朝日陶芸展」に初入選し、備前焼の小西陶蔵氏に師事し5年間修行します。

   1979年 伊賀に戻り、丸柱の古窯跡地に窖窯を築きます。 

        デンマーク国立博物館が、「陶筥」を買上ます。

   1995年 タイ・ダンクェン村で作陶。 三重・花御堂にて発表

   1999年 沖縄知花で作陶(2000年 同堂にて発表)。 琉球南蛮を発表します。

    (青砂工芸館・ギャラリー桃)

   2003年 三重・アートスペース「蔵」で 「小島憲二の眼と手(コレクションと作陶)」を開催します

  ・ 尚、朝日陶芸展、中国国際陶芸展、伝統工芸支部展、陶芸ビエンナーレ展、日本陶芸展など

      入選や受賞を多数受けています。

  ・ 名古屋橋本美術、沖縄・青砂工芸館、池袋東武、大丸京都展、大丸心斎橋店、沖縄三越、

    松坂屋静岡店、名古屋丸栄、日本橋三越本店、横浜高島屋、三重・堤側庵、名古屋丸栄など

    全国各地にて個展を中心に作品を発表しています。

  ② 伊賀焼きとは    

     伝統的な伊賀焼は一切の釉を用いず、耐火度の強い伊賀の土に、他所にない高温で

     焼成(伊賀の攻め焼き)し、赤松の灰から生み出される「ビードロ、焦げ」などの力強い景色と、

     茶人好みの雅味に富んだ造形とが特徴と言えます。

     窖窯での長時間の焼成、それに耐える力強い造形や美が見所です。

  ③ 小島氏の陶芸

     彼は、主に皿や鉢などの食器類と花入、壷などの作品が多い様です。

    ) 皿類: 手捻りの板皿が多く見受けられます。

      ・ 炭化四方皿: 黒、焦げ茶、灰色などの色が、波打ち際の砂浜の様に段々に波打って

        いる作品です。20 x 20x h2.0 cm

      ・ 彩文葉皿: 釉の掛かった葉皿で、黄、緑、黒と地の白色を、区分けして色付けした楕円形

        の皿です。14 X 27 X h3.5 cm

    ) 大鉢: エメラルドグリーンの自然釉、即ち「ビードロ」が器の中心部に集まっています。 

         伊賀 荷葉(かよう)大鉢  44 x 40 x h11 cm

          注: 荷葉とは、古来蓮の葉を意味したそうです。

       口元は蓮の葉を思わせる柔らかな曲線に波打ち、早朝の蓮の葉に宿る雫を溜めた様な

       潤いある豊かな「ビードロ」の色合いを見せています。  

    ) 「伊賀石景」の作品

        彼の作る壷や花入などには、「石景」と名付けた作品が多いです。

       ・ 伊賀石景花入: 六角の箱型の花入で、自然釉と見られる流れが見られる作品です。

         28 x 14 x h29 cm

       ・ 石景壷: 土の赤、ビードロの緑、灰が焦げた黄褐色が、絶妙なバランスで配色され、

         その景色は素晴らしい物と成った壷です。55 x 55 x h 25 cm

    ) 「塊の土瓶」 : 仙人を乗せた小舟やアジアの帆船、または鳥の様にも見える風変わり

        な土瓶です。釉は掛けられています。遊び心がいっぱい詰まった作品です。

    ) 彼は又、伊賀焼の可能性を拡げる為に、色々な土や色々の焼成を試みています。

        琉球南蛮や釉物の陶器も、手がけ個展に出品しています。

 次回(澤清嗣、澤克典氏)に続きます。

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現代の陶芸240(山田和)

2012-11-17 22:42:22 | 現代陶芸と工芸家達
今、超人気の陶芸家の一人に、福井県宮崎村の越前陶芸村に在住し、志野、青織部、黄瀬戸、
 
瀬戸黒などの作品を、個展で発表している人が、山田和氏です。
 
1) 山田 和(やまだ かず): 1954年(昭和29)~
 
  ① 経歴
 
   1954年 愛知県常滑市で、常滑焼日展作家の山田 健吉氏を父に、人間国宝 三代山田常山を
 
          伯父に持つ陶芸一家に生まれます。
 
   1976年、大阪芸術大学 芸術学部工芸学科 陶芸コース卒業します。

          同年、福井県宮崎村の越前陶芸村に築窯します。

   1988年 ドイツにて窖窯「ヤン・コルビッツ陶房」を築きます。

         マークスツェルナープロダクション制作の記録映画「炎より生まれる」に出演。

   1989年、ドイツにて作陶、初窯を焚きます。

    個展: 名古屋(丸栄、豊橋など)、東京(日本橋三越、銀座黒田陶苑など)、大阪(高島屋、

      JR大阪三越伊勢丹など) 各地で開催しています。

  ② 山田和氏の陶芸

     幼い頃より焼物に親む環境で育った為、15~16歳頃には轆轤が挽けたそうでます。

    ) 山田氏には二度の決定的な転機があったとの事です。

       それは、八木一夫氏を中心とする、京都の走泥社で新しい陶芸活動に共感を覚えます。

       更に、当時の米国で持てはやされた、アメリカン・ポップアートの影響とされています。

       もう一つは、加藤唐九郎との出会いであると語っています。

     a) 日展で活躍する、親のやっている伝統的な陶芸とは異なる陶芸をやりたいと思い、

        アメリカの陶芸に憧れて大阪芸大に入学します。

        当時の大阪芸大の柳原睦夫先生が、アメリカからどんどん仕入れて来て、米国の

        陶芸をスライドを使い、授業で見せられる事が、大変刺激的であったと述べています。

       ・ アメリカには、伝統の影響はない事から、日本人が全く気がつかないところで、

         又全く自由な考えで、なんでも有りの状態の風土が刺激的で合ったようです。

       ・ 注: 走泥社とは、1948年、京都で八木一夫、鈴木治、山田光、松井美介、叶哲夫の

        5人によって結成された陶芸革新運動の結社です。

        (山田氏の高校時代に影響し、しばしばその作品展を見に行ったそうです。)

     b) 最初の個展を、陶芸村で行った際、父の知人でもある加藤唐九郎氏が見にきてくれ

        そこで知り合いになります。唐九郎氏の志野茶碗を手にとって見てみたいと思い、

        美術商の処に連れて行って貰います。その時までは茶碗としてではなく、オブジェとして

        関心があったようです。しかし、唐九郎氏の志野茶碗を見たら、「アメリカの陶芸なんて、

        屁みたいなもんだと思う」様になり、志野にのめり込んで行きます。

       ・ 「唐九郎氏が生きている間は、心酔して僕にとっては教祖的な存在でしたね。」と述べて

         います。勿論唐九郎氏に作品を見せ、批評も受けています。

       ・ 唐九郎氏の「越前の土でいい志野ができる」との言葉で、越前の土で志野を中心として

         青織部、黄瀬戸、瀬戸黒などを手掛ける様になります。

     ) 志野宣言の後の、90年代以降は志野、織部、黄瀬戸、瀬戸黒などに加え、独自の

         赫釉(かくゆう)を持って各地の個展で発表し、高い評価を得ます。

   ③ 山田氏の作品: 主に抹茶々盌や水指などの茶道具と、酒器、食器、花入を作っています。

     ) 炎舞志野茶盌(えんぶしのぢゃわん)」 :1999年発表し、自ら名付けた彼の代表的な

        作品の一つです。文字通り、赤い炎が舞い上がっている様な表情をしています。

        即ち土見せ(高台脇と高台、高台内)部以外に、釉がたっぷりかかった作品です。 

        尚、この赤い色は、鉄釉によって発色させているとの事です。

     ) 赫釉(かくゆう)織部茶盌:この作品は山田和の独特の織部です。

        白化粧された白い器肌(又は白い素地)に、流し掛けされた釉や、真っ赤な文様が描か

        れた茶盌で、線刻模様に黒を入れたと思われる、抽象的(意味不明)な絵が描かれて

        います。

        ・ この赤は、上記炎舞志野よりも、透明感のある強烈な赤になっています。

          日本海に沈む夕日をイメージし、そこからヒントを得たとの事です。

        ・ この釉の発端はオブジェ時代(米国の陶芸に憧れていた時代)に作った釉だそうで、

          当時は鳥籠に入った人形が血を吐いている作品を作り、その血の色だったそうです。        

     ) 志野手斧目(ちょうなめ)茶盌: 手斧で削った痕が残る志野手茶盌です。

         手斧とは: 大工道具の一つで、木肌を削り仕上げる物で、削り痕が独特の文様に

         なります。

      ) 伊賀花入. 伊賀花入. 伊賀花入. 青織部花入. 青織部花入などの作品。

        茶盌類が、伝統的な形をしているのに対し、花入はかなりオブジェ的な作品になって

        います。若い頃手掛けた作品の名残の様なものを感じる作品です。

 

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現代の陶芸239(小川幸彦)

2012-11-16 21:21:14 | 現代陶芸と工芸家達

日本の陶磁器の原点である、須恵器の事を徹底的に研究し、須恵器の作品を作り続けた作家が

静岡県島田市に住む、小川幸彦氏です。

  注: 須恵器とは、古墳時代~平安時代に生産された陶質土器(器)で す。青灰色で硬質です。

    5世紀に朝鮮半島南部から、窯と伴に伝わったと言われています。

1) 小川幸彦(おがわ ゆきひこ): 1942年(昭和17) ~1998年(平成10)

  ① 経歴 

    1942年 東京渋谷に生まれます。

       1962年 明治大学を中退し、造形美術に進む決心をします。

          知人の紹介で、京都の陶芸家、岩淵重哉氏の内弟子として師事します。

    1967年 沖縄での南蛮焼き、栃木県益子での民藝陶器、愛知県の常滑での、平安・鎌倉      

          時代の古陶の研究をする為、各地を廻り作陶を続けます。

    1969年 日本工芸会正会員に推挙されます。この頃より、工房と窯を築く場所を探し求める

           様になります。

    1971年 静岡県島田市阿知ヶ谷に窖窯の「天恵窯」を築きます。

    1972年 その窯で信楽、常滑の土や地元の陶土を使い、須恵器を作り始めます。

    1978年 地元の古陶「志戸呂焼(しとろやき)」の、素材・材料の研究を行い、独自の灰釉の

          表現を駆使し、次々に精力的な作品を制作し発表します。

      1980年 灰釉研究の為、新たな窯を設計し窯を築き、独自の灰釉の作品を作り始めます。

   1987年 窖窯の構造を工夫して、須恵器、自然釉、南蛮などの作品を作り、発表しています。

   2005年 七回忌の回顧展が、地元「島田市博物館」で開催されました。

  ②  小川幸彦氏の陶芸

    彼は古代美術に詳しく、その鑑識眼と造詣に深い人でした。彼の作品は、「土の声」を聞き、

    「土との対話」によって、薬壷(やっこ)や大壷を小さな轆轤や、手捻り等の「手」によって制作

    しています。

   ) 灰釉薬壷: 灰釉の掛かった、蓋付きの円形(球状)の壷です。

       大きさ(H xW xD cm): 34x37x37。

       灰釉の作品には、灰釉瓶子。灰釉耳付長頚瓶。灰釉輪花鉢などの作品があります。

   ) 自然釉壷類

     ・ 自然釉蓮弁大壷: 叩き技法による叩き板の文様のある大壷で、中段に釘やヘラで描いた

       団子状の円で蓮弁を表しています。 45x47x47。

     ・ 自然釉大壷: 下部には叩き板の文様が鮮明に見えます。中段から上段に掛けて三本の

       平行線が描かれ、その間には大雑把な丸や、ニョロニョロした線が描かれている作品で、

       肩には、灰色っぽい自然釉が濃い目に掛かっています。40x43x43。

   ) 器(せっき)類:英語の"Stone ware"の訳語。。「焼き締め」ともいう。 施釉はせず、

        焼成で自然釉が掛かる焼き物です。

     ・ 器壷、器リンゴ壷、器梵字文瓶子、器板皿、(無釉の焼き締め陶器)

     ・ 器赤絵扁壷、器赤絵花器: 器の表面に青、濃紺、赤絵が施された作品です。

    ) 南蛮の作品:

     ・ 南蛮大ノ字文壷: 熔けきっていない灰が壷の肩に積み重なって、凸凹した器肌に成った

       作品です。胴部に「大」の文字が、へらで大書してあります。 21x22x22。

     ・ 南蛮線文「大日如来」壷: 平らの面を持つ偏壷で、平らな面に座す「大日如来」が線で描

       かれています。  

   ) 志戸炉(しとろ)釉の作品:

      志戸炉焼きとは、静岡県遠江(とおとうみ)国 志戸呂で産した陶器で、赤みがかった器に

      黄色釉や黒釉を掛け、独特の侘びた味わいがある作品です。茶器が好まれています。

     ・ 志戸炉釉花器: 筒型で上部には褐色の釉が、下部には黒釉が掛かった作品です。

       大きさ: 30.5 x 18 x 18 cm

     ・ 志戸炉釉大鉢: 逆円錐形の鉢で、白い器肌に黒釉が斑(まだら)に掛けられています。

       大きさ: 22 x 36 x 36 cm

   ) その他: 志戸呂徳利、南蛮徳利、信楽徳利、自然釉徳利、ぐい呑、麦杯酒盃などの酒器や

      山茶碗などの茶碗類と、灰釉灯火器(中に蝋燭を入れた明かり取り器)なども作っています

次回(山田和氏)に続きます。

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現代の陶芸238(柴山 勝)

2012-11-14 22:09:05 | 現代陶芸と工芸家達

自然界の小さな動物や植物をモチーフにし、細密な描写に絵付けした作品は、その独特の雰囲気を

持ち、世に発表している作家に北海道に在住する柴山勝氏がいます。

1) 柴山勝(しばやま まさる) : 1944年(昭和19年) ~

  ① 経歴 (詳しくは公表されていません)

    1944年 東京の下町に生まれます。

    1967年 九谷焼窯元(石川県加賀市)のニ代と三代 須田菁華氏に陶芸を学びます。

    1969~74年 絵、陶芸、古美術を学びます。

    1972年 お茶の水美術学院でデッサンを学びます。

    1975年 北海道伊達市に窯を築きます。

    1980年 札幌丸井今井百貨店で個展を開催します。

    1983年 同店で個展を開催し、以後毎年開催します。

    1987年 東京渋谷の黒田陶苑にて個展を開催し、以後毎年開催します。

    ・ 個展: 東京銀座松屋(1987、89年)。東京新宿小田急(1989年)。 新宿伊勢丹

      (1991年)など多数。

   ② 柴山勝氏の陶芸。

    ) 柴山氏が師事した九谷の菁華窯では、中国明末の万暦、天拝啓期(1573~1627年)の

      染付けや赤絵、古伊万里や古九谷の他、安南の写しを手がける窯元です。

      尚、現在は四代目が継承しています。

    ) 1975年に移り住んだ、北海道伊達市は室蘭の噴火湾に面し、緑溢れる牧歌的な明るい

       自然に囲まれた土地です。目の前に広がる海や山には沢山の題材があり、これらを写生し

       自ら作った半磁器の作品に、絵付けをしています。

       「海、田、川、牧場、菜園、林、野原、山、これらが私の器の原点です。」と述べています。

    ) 海: 海辺の植物のハマハタザオ、コウボウシバ、ハマナス、ハマナスの実、浜ヒルガオ、

        ハマエンドウが描かれた長方鉢と、徳利と酒のみの器。

        浜はいそがしいの図の台皿(地引網を引く図)。蟹や海老、イカ、シャケ、平目などの

        魚や、イソギンチャクやヤドカリなどが絵付けされた、方形の小皿やイシダイの小皿など

        その他、湯のみ、蓋物などの食器類を作っています。

     ・ 田: 田のあぜ道の一年の図小皿。田のあぜ道の四季とまわりの草花の図の器。

         「稲わら手と米俵」と題するめし茶碗など。

     ・ 牧: 「牧場の図」と題する長方鉢や、とっくりとさけのみとふり出し(徳利と酒呑と振り出し)

          秋の牧場の図などには、野草や樹木と共に、牛が描かれています。

     ・ 流: 清流魚(ヤマメ、イワナ、アマゴ、ニジマス、スワマスなど)の小皿や箸置。

         サクラマスになるために海へいくものと、川の上流へ行くヤマメの図の鉢。

         輝く水面の図 ヤマメとニジマスの四方台皿。朝焼け夕焼けの草むらの図鉢。

         川へ行く途中や川辺で見かけた草花の図(カタクリ、福寿草、エゾリンドウ、ツユクサ、

         スズムシ)の小皿。川辺の草花づくし 水面の図長方鉢。

     ・ 菜園: 家庭菜園の図の鉢と小皿とゆのみ。うり型鉢 虫の安心の図。作物の図の皿。

     ・ 林: 水引草の咲く林内できのことる図の器。子供と虫とりにいったがさきにとられているの

        図の器。

    ・ 湖沼: 北海道のニセコ連峰には、高層湿原が有り、湿原植物が次々と花を咲かせ、いつ

        来ても楽しい所だそうです。

        木道のある湿原と湿原の草花の図の鉢。洞爺湖の図。

    ・ 山: 私の登った輝く山々の図。高山植物の図の小皿。高山植物づくし 平鉢。

   ) 柴田氏の作る作品は、主に日常使う食器類です。

    a) 半磁器土で轆轤挽き、タタラで貼り合わせ、型を使用などの技法で作られ、淡い呉須や

       鬼板などの鉄で下絵が施され、透明感のある薄い水色の釉が掛かっています。  

       更に、赤絵の上絵が施されている作品もあります。

    b) 絵柄は柴田氏の身の回りにある、自然や動植物が主になっています。

       柴田氏は常に、スケッチブックを携帯し、暇を惜しまずスケッチしています。その為細かい

       所も写実的に描かれいます。

    c) 作品の題名からも解かる様に、その絵がどんな場面で誕生し、どの様な事に関心が向いた

      たかを知る事ができます。更に、平仮名が多く長い題名は、小さな子供でも読め、より平易に

      鑑賞する事ができます。

    d) この様な柴田氏の作品は、牧歌的な雰囲気を漂わせ、見る人の心を和ませています。

      その為、熱狂的なフアンがいる事も納得されます。

    e) 近年、白化粧土を使った「樹木や葉のシリーズ」や、色絵の「路傍の草花シリーズ」を発表

       しています。

次回(小川幸彦氏)に続きます。

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現代の陶芸237(市野茂良)

2012-11-13 20:55:57 | 現代陶芸と工芸家達

兵庫の丹波立杭焼(たんば たてくい)は、瀬戸、常滑、信楽、備前、越前とともに、日本六古窯の

一つに数えられている焼き物です。丹波は丹波笹山藩の城下町で、白壁の武家屋敷と、妻入型の

商家が古い町割に沿って軒を接している町です。

1) 市野茂良(いちの しげよし) : 1942年(昭和17) ~ 2011年(平成23)

  ① 経歴

    1942年 兵庫県丹波立杭の窯元、丹窓窯(たんそうがま)の家に生まれます。

           父は陶芸家の市野丹窓(たんそう)氏です。

    1967年 兵庫県美術展に入賞します。

    1969年 英国セント・アイブスの陶芸家、バーナードリーチ氏の招きにより渡英します。

       4年間研修を重ねながら各地の美術展に出品し。仏国ヴィルノックスに築窯します。

    1973年 帰国し、丹波古陶館にて帰国展を開催します。

    1974年 セントラルギャラリーにて個展を開催。

    1988年 篠山王地山焼陶器所に登り窯を築く。 英国スコットランドにて個展を開催。

    1996年 阪急うめだ本店(大阪)にて、20回記念個展を開催。

    2002年 「神戸市美術展」の審査委員になります。

    2008年 バーナード・リーチ工房オープン記念展(英国)に出品します。

       過去に同工房に在籍したことのある陶芸家(ジョン・ リーチ、ジョン・ベディング、

       ジェイソン・ウェイソン、トレバー・コーサー、ニック・ハリスン、 濱田晋作、市野氏7名)の

       作品展です。

   ② 丹波立杭焼(丹波焼、立杭焼)

    ) 兵庫県多紀郡今田町を中心とした窯場の焼き物で、開窯は鎌倉時代初期(又は、平安

       末期)の十二世紀末と言われています。

       茶褐色の素地に、ビードロ状の自然灰釉が肩に掛かった重厚な作品が多いです。

     ・ 古窯跡からは、三筋壷や甕(かめ)、瓶子、鉢などが出土し、常滑などの東海地方の窯の

       影響を受けた事が解かります。

    ) 主に生活用品の器が焼かれ、初期には壺や甕、擂鉢(すりばち)などを作っていました。       

       中世には轆轤を用ず、紐作りの手法で形を整え、窖窯で焼成し釉を用いず、焼き締め

       (器)て作られています。尚、窖窯時代には小野原焼と呼ばれていた様です。

    ) 江戸時代に入り、登窯が用いられ、大量生産品で堅牢な擂鉢が作られ、17~18世紀  

       にかけ、中部や関東以北に急速に普及します。      

       登窯時代に、「丹波焼」或いは「立杭焼」と呼ばれる様になります。

      ・ 登窯は大甕を焼く為に、規模が大きな共同窯で、「鉄砲窯」や「蛇窯」と呼ばれる細長い

        竹割り式で、長さが60mの窯もあった様です。

    ) 江戸期の寛永年間(1624~44)の一時期、小掘遠州好みの茶器も焼かれ、茶人の間

       では遠州丹波と呼ばれています。

       茶碗、茶入、水指などの施釉された茶器の分野で、数多くの銘器を生み出しています。

   ③ 市野茂良の陶芸

    ) 大学を卒業後の1965年、バーナード リーチ氏の招きで、単身で英国に渡り、リーチ氏の

       窯で4年間修業を続けます。

       滞在中は、ヨーロッパ各地の美術展に出展しながら、フランス・ヴィルノックスに窯を築き、

       作陶の指導などをしています。

    ) 帰国後、父親の丹窓窯を引き継ぎ、大阪、東京やヨーロッパで個展を開き、独自の

       丹波焼を発表します。彼の作る作品は、食器 、茶器、 菓子器 、花器などが主ですが、

       大きなモニュメントも制作しています。重厚感のある壷や皿など、民藝調の作品もあります。

    ) 特に古丹波の技法を用いながら、斬新な作風の作品を発表しています。

      その為、兵庫教育大学講師を務めながら、丹波篠山藩御用窯の復活に力を貸し、

      王地山陶器所の登窯を築きます。

    ) 丹波焼きの技法

       丹波焼きの装飾方法として、型押、釘彫、イッチン(筒書き。スポイト掛け)、鉄絵、白泥絵、

       貼付文、墨流しなどがあります。

       市野氏は、立杭焼の技術と文化・歴史の伝承に力を入れている作家です。

      ・ イッチン(筒書き)は、市野氏が得意とする技術です。

        素地と異なる泥状の色土を竹筒に入れ、細い口から絞り出して、文様を盛り上げて描く

        方法です。

現在、今田町上立杭、下立杭、釜屋地区の窯元は約60軒あり、今田以外にも丹波立杭焼を名乗る

窯元が多数存在しています。

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現代の陶芸236(三輪龍作2)

2012-11-11 21:44:31 | 現代陶芸と工芸家達

  ② 三輪龍作氏の陶芸

   ) 初期の作品は、「エロスと死」が混在する青春期の「不安の感情」を、自己告白的に形象化

       しているものと言われています。

    c) 「紳士の為に」(1969年)の作品。

      この作品は、丸い頭と細長い体(又は首か?)が垂直に立っています。

     赤、青、黄、白の丸い頭(顔)には、目や鼻が無く、真っ赤な大きな唇や、縦に開かれた女性器

     が顔の真ん中に表現されています。但し、側面にはしっかり耳が取り付けられています。

     この作品は、彼の頭の中は常に女性の事がいっぱいである事を、告白している様にも見え

     ます。 耳は女性の声(嬌声)を聞く為に、大切な要素として表現されています。

     発表された1969年は、龍作氏が29歳頃となります。健康で健全な青年ならば、誰でも考えて

     いる事で、彼が特別変態でもなく、ごく普通の紳士である事を、自ら告白した作品と成って

     います。  大きさ: 85.5 x 47 cm。 艶のある釉が掛けられています。

   d) 「M氏夫妻」の作品: 死を扱った作品に見えます。(1978年)

     金彩を施した、二個の頭部の像で、顔面が腐敗し鼻は大きな穴となり、口周辺の肉も落ち

     骨が露出している作品です。なぜかメガネを掛けています。

   e) 「女帝」、「古代の人」の作品(1979年): 「エロスと死」との思考が深められていく作品です

    ・ 「女帝」は、金彩が施された四角い陶板を三段重ねた作品で、女帝が座る敷物を表現して

      います。その中央に上を向いた女性器が一つ口を開いて置かれています。

     上下の陶板には、連続模様が施され、中段の陶板には雲形の様な文様が彫り込まれて

     います。 いずれも、女帝を権威付ける為の文様と成っています。

      大きさ: 180 x 250 cm 。

   ・ 「古代の人 王墓。 古代の人 王妃墓」の作品: 

     黄金の骨と成った王と王妃を表現し、胸の部分には、割れた四角い墓碑の陶板が置かれて

     います。両腕の骨と、大腿骨、更には何故か腐敗しない男性器(王妃には女性器)が添え

     られています。王の左腕には、錆びて折れた剣が、王妃の両腕には花が添えられ、頭部

     周辺には、櫛と銅鏡が置かれています。

     王の墓碑銘には、「R.MIWA 1940 ~ 2940 」と有り、王妃の墓碑銘には、「T.MIWA

     1945 ~ 2940」の文字(即ち千年生きた事になります。)と、英文で綴られた文字が彫り込

     まれています。

     この作品は王は龍作氏を、王妃は彼の妻を表し、千年の愛を誓ったものかも知れません。

    大きさ: 180 x 380 cm。(金彩、一部コンクリート製)

   f) 個展の「白嶺展」:(1984年、日本橋三越本店)では、「白嶺」と題するシリーズの作品を発表

     します。この作品は、ヒマラヤやアルプスと思われる急峻な白嶺に対峙する、弱い人間の

     存在の思いを表現していると言われています。

   g) 個展の「三輪龍作 天・地・人 展」:(1986年、京王百貨店(東京)、高島屋(京都)

      この頃より、仏教(宗教)的模索が始まります。その結果は1988~1994年の東京などの

      以下の個展で「卑弥呼」シリーズとして結集します。  

       「三輪龍作 卑弥呼」、「三輪龍作 卑弥呼山展」、「三輪龍作 卑弥呼の書展」、「三輪龍作

     続・卑弥呼の書展」、「卑弥呼(ひみこ)シリーズ展」。

    ・ 「卑弥呼山」と題する作品は、槍の穂先の様に聳(そび)え立つ、数個の屏風ふうのブロック

      から成り、その表面は不定形の亀甲模様に金彩が施されている作品です。

      「卑弥呼山」: 205 x 218 x 90 cm。

    ・ 「卑弥呼の書」: 書物が鳥の様に、大きく翼を広げて羽ばたく様に見えます。

      ここでも、その中央に、女性器の穴が開けられています。

      大きさ: 47 x 51 x 40 cm。

     他の「卑弥呼の書」では、数枚のページが重なり、表面のノページには、文字と見られる見知

     らぬ文様が書き連ねています。

     大きな断片に壊れ、その中央には、女性器がしっかり彫られています。

      大きさ: 195 x 650 x 300 cm と巨大です。(黒陶)

 

  龍作氏は、2003年に十二代、三輪休雪を襲名しましたので、これからは、一段と伝統ある萩焼への

道を進む義務が生じるかも知れません。

但し、従来の萩焼とは一味違った作品になると思わ、期待もされています。

次回(市野茂良氏)に続きます。

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現代の陶芸235(三輪龍作1)

2012-11-10 21:34:39 | 現代陶芸と工芸家達

伝統ある山口県の萩焼の窯元に生まれ、十二代 三輪休雪を襲名した三輪龍作氏には、萩焼の

伝統である茶道具や食器を作る使命と、オブジェの作者としての二つの顔があります。

特に、龍作氏はエロチシズム溢れるオブジェの焼き物で著名な方です。

1) 三輪龍作(みわ りゅうさく): 1940年(昭和15) ~

  ① 経歴

      1940年 山口県萩市に十一代三輪休雪(人間国宝)の長男として生まれます。

   1959年 画家を志望し、絵画を始めます。ムンクや谷崎潤一郎、太宰治の文学に惹かれます。

   1966年 東京芸術大学 大学院陶芸科を卒業し、 処女作「ハイヒール」を作ります。

   1970年 「現代の陶芸ーヨーロッパと日本展」に出品: 京都国立近代美術館

   1973年 「日本陶芸展」(毎日新聞社主催)に入選。

   1974年 「日本国際美術展」に出品:東京都美術館。 萩市上野に窯を築きます。

   1977年 イタリア「ファエンツァ国際陶芸展」にて受賞。

   1979年  「第8回現代日本彫刻展」(宇部市野外彫刻美術館)に「古代の人」を出品。    

          国際陶芸アカデミー会員になります。

   1981年 「世界の現代陶芸展」に出品: 九州陶磁文化館

   1982年 「現代の陶芸ー伝統と前衛展」に出品:サントリー美術館

   1983年 「今日の日本陶芸展」:米国・ワシントン、英国・ロンドン

         「全日本伝統工芸選抜展」:毎日新聞社主催

   1988年 「サントリー美術館大賞展」に出品。

   1989年 日本陶磁協会賞を受賞。

   1991年  「国際現代陶芸展」:滋賀県立陶芸の森陶芸館

   1994年 「国際現代陶芸展」:愛知県陶磁資料館

   2001年 「世界現代陶磁展」:世界陶磁器エキスポ、2001韓国

   2002年 「現代陶芸の100年」:岐阜県現代陶芸美術館

   2003年 「現代陶芸の華」に出品:茨城県陶芸美術館。

         「十二代 三輪休雪襲名記念」の個展を開催します。

  ② 三輪氏の陶芸

   ) 三輪氏のオブジェの作品の特徴は、女性の唇や女性器を表すエロチシズムある造形と

     深い繋がりがある事です。即ち、丸い頭の中央に真っ赤な唇のみを持つ像や、大股を広げた

     女性の下半身像などで、見る方にも強い刺激を与える作品群が多いです。

   ) この様な作品を作る動機は、萩市より勉学の為、東京に出て来た学生時代に、銀座で

     遭遇した出来事が切っ掛けになります。

     三輪氏が銀座を歩いていた時、白い外車が横切ったそうです。その際、唇の口紅を押さえた

     ほのかな「キスマーク」の付いた、ピンクのテッシュペーパーが足元に落ち、彼の方に向いて

     いたそうです。当時はピンクのてテッシュを見た事も無く、更にキ「スマーク」は、開き加減の

     女陰を見てしまった卑猥(ひわい)な感覚に囚われ、その場に立ち竦んだとの事です。

     (エッセイ集『僕と炎と唇と』より:1985年求龍堂)。

     それ以来、「女性的なるもの」、「エロス的なるもの」を深く意識する様になります。

   ) 彼は単に「エロスチシズムを賛歌する」作家ではなく、エロスと死は表裏一体のものと捕らえ

      エロスの一方(裏側)に死の不安を感じとります。

   ) 初期の作品は、「エロスと死」が混在する青春期の「不安の感情」を、自己告白的に形象化

       しているものと言われています。

    a) 処女作の「ハイヒール」は、その後も「愛の為に」と題し1980年に多数発表しています。

       靴の先端が長い「ドリルの刃」の様に、渦を巻いて先細りに成っています。

       作品には全体に金彩が施されています。 

       サイズは(h x w x d): 19.5 x 32.4 x 9.4 cm

    b) 初期の個展には、「三輪龍作の優雅な欲望展」、「三輪龍作の愛液展」などの刺激的な

       題名が付けられています。  

      1969年の「LOVE」と題する作品は、細長い徳利状の白い容器から、ドロドロした赤い

      液体が流れ出しています。容器は原色の白の他、赤、黄色、黒があり、液体も赤、白、茶色と

      多彩です。サイズ: 90 x 84 x 103 cm など。

     ・ この作品は男性の性器(男根)から、生命の根源である精液が止め処も無く流れ出して

      いる様にも見えます。更に、 見方によっては、容器の白は白人(コーカソイド)を、黄色は

      黄色人種(モンゴロイド)を、黒は黒人(ニグトイド)を表しているとも見えます。

     ・ 題名の「LAVE」(愛)は、誰に対しての「愛」を意味するのでしょうか、男女間の「愛」や

      「人類愛」に限らず、「全ての生物の生命への愛」を意味するとも見る事ができます。

    c) 「紳士の為に」(1969年)の作品。

以下次回(三輪龍作2)に続きます。    

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