高校生の頃、全般的に勉強というものは好きじゃなかったが、唯一、大がつくほど好きだったのが古典だった。
源氏物語や枕草子などの古典は、一度や二度読んでも意味不明だが、繰り返し読み進めて意味がわかってくると、もう目の前にその情景が浮かんでくるほどで、授業を聞きながら、意識は一瞬で平安時代へと飛んでいた。
抑揚のない小さな声が、非常に聞き取りにくい古典の教師だったが、古典だけは(ここ強調。他は舟をこぐこともあり)解説を聞き漏らすまいと、全身を耳にして聞いていた。
ところで「源氏物語」は紫式部が書いたという事になっているが、実は1000年頃、宮中にいた女房たちが、紫式部の書いた筋書きにあーだこーだと言いながら、どんどん話を口頭で付け加えて出来上がったものなのだということを、最近知った。
つまり源氏物語の文章は、当時の女性たちの口語で、話している言葉をそのまま書いたものなのだとか。
そういう事なら、初めて読んで分かるはずがないのは当たり前だ。現代であっても、若い娘(こ)たちの話す会話が、何を言っているのやら、よくわからないくらいなのだから。
また、清少納言の「枕草子」も同じで、清少納言の口語がそのまま文章にされているそうだ。
実は、私が一番好きだったのが枕草子で、高校生の頃は冒頭の文章は暗記していたくらいだった。
春は曙。やうやう白くなりゆく山際。すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
夏は夜。月の頃はさらなり。闇もなほ、蛍とびちがひたる。雨など降るも、をかし。
秋は夕暮れ。夕日のさして山際いと近くなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び行くさえあはれなり。まして雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆる、いとをかし。日入りはてて、風の音、蟲の音など。(いとあはれなり)
冬はつとめて。雪の降りたるは、いふべきにもあらず。霜などのいと白きも、またさらでも いと寒きに、火など急ぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、炭櫃・火桶の火も、白き灰がちになりぬるはわろし。
この短い文章の中に「いと」という副詞が多く出てくるのだが、現代語だと、「すごく」とか「超」と訳される。
「超~」「めっちゃ~」まさに現代の若い女の子たちがよく使う言葉になっている。
つまり清少納言は、1000年前の女子高生のようなもので、自分の好きな事や嫌いな事をきゃっきゃと喋りながら、このような枕草子を書いたのではないかと推測されるそうだ。やはり自分も女子高生だったので、類は友を呼ぶ?で枕草子に惹かれたのかもしれない・・・
そのようなことを知ったうえで、また枕草子を読み直してみるのも面白いかなと思う。
それにしても、現代は自分の好きな事を書く場所が、ブログを含めて数多くあるが、もしかして1000年後には、現代人が書き残したものが、古典の授業で使われていたりするのかもしれない。
それもまた、いとをかし・・・