鼎子堂(Teishi-Do)

三毛猫堂 改め 『鼎子堂(ていしどう)』に屋号を変更しました。

『美味しい』と『美味しかった』

2018-06-02 23:52:52 | 食・料理

雨季をまじかに控えた極上の初夏日和。
湿度低く、風爽やかな土曜日。


ヒトによって、『美味しく』感じる食物は、様々なのだろうけれど、誰にでも、『美味しい』と感じる感覚・・・というものが備わっているモノだとばかり思っていた。

・・・どうやら違うようなのである。

世の中には、『美味しく』ても、『美味しい』に関心(興味)がないヒトがいるようなのだ。

私は、極端なコトを言えば、食べている時が、一番幸せだし、『美味しい』と感じると、幸せだし、『美味しい』記憶を反芻して、『美味しかった』を感じている時が一番幸せだ。

『美味しいから、あのお店に行きませんか?』
と誘われて・・・ではでは・・・と、ご一緒すると、お誘い下さった方と『美味しい』の感覚が、一致しないことも、多々ある。


かつて・・・半世紀以上前までは、食べられるだけで、食べるものがあるだけで、『美味しい』を追求できる時代ではなかったこともある。

『美味しい』ものが、ない時代の方が、長かったのだろう・・・。
少なくとも、日本人が、美味しいものを求めだすのは、たかだか半世紀前くらいのハナシである。

『美味しい』或いは、『美味しかった』という感覚は、或る意味、才能?なのかもしれない?と思っている。

人は、1日2回以上は、食事、或いは、食事と迄は、行かなくても、食品を食べるのだから、そのたびごとに、『美味しい』と『美味しかった』という極上の感覚を、感じられるのは、幸せで、この『美味しい』と『美味しかった』という感覚に興味を持てないひとは、不幸である・・・と思っている。

かつて、私も、『美味しい』、『美味しかった』という感覚を感じられない人間だった。

中学生になる迄は、『空腹』の感覚がなくて、小学校の給食の時間は、地獄だった。

小学3年と4年の担任が、給食を残すことを禁じたので、偏食で、小食だった私は、供された給食を、完食するまで教壇に正座させられて、席に戻るのを許されなかった。
ひどいときは、放課後迄。
いつも決まって、3人が、午後の教壇組となった・・・という話は、拙ブログでは、既出だけれど。
まともに食べられたのは、カレーの献立くらいだった。

家に帰ると、また、夕食で、出される食事が、美味しくなかった・・・というより、まずかった。
家では、嫌いなものを無理矢理、食べさせられることはなかったが、ものすごい偏食だったから、食べ物に嫌悪を覚えていた。


こうして考えてみると、随分、不幸だった時代が、長くて、『美味しい』と『美味しかった』には、無縁だったと思う。

『美味しい』と『美味しかった』を感じられる今、随分と幸せになったもんだ・・・と思っている。