鼎子堂(Teishi-Do)

三毛猫堂 改め 『鼎子堂(ていしどう)』に屋号を変更しました。

雷都日記-5(流浪の果てに???)

2023-12-17 21:17:12 | Weblog

朝から冷たい強風の吹く冬晴れの日曜日。

昨日の暖かさから一転。真冬に(つまり普通に)戻った・・・感じ。

 

雷都に転居して、1カ月が経った。

別段、何をする訳でもなく、映画をみたり、普段の食糧調達くらいしか外出もせず。

旧居宅に居たときのように、漠然と暮らしている。

・・・ただ・・・長年住み慣れた旧居宅と違うから、そのストレスも半端ないような気がする。

旧居宅は、隣近所が遠くて、一種の孤立した感じもあって(実際、居宅周辺に、県営住宅や中学校、新興住宅地ができる前は、雑木林の中にポツンと建ってる一軒家だったし)、隣家へのストレスが皆無であったけれど、今は、他の住宅に囲まれた狭い空間である。

風が吹けば、樹々の騒めき、野鳥の声、雨の音・・・そんな旧居宅とは違って、救急車、消防車、パトカー、街道を走る車の音は、深夜も絶えることがない。

 

それでも・・・。

(大っ嫌いな)愚弟家族と接していないのは、心の負担もないし、生前の母も、いっそ別居して、二人で暮らそうか・・・などとこぼしていたこともあって、母と私にとって、最大のストレスだったから。

あの愚弟と暮らしている嫁の強靭な精神には、正直、気の強さが、彼女、最大の評価であろうな・・・とか、なんとか。

まあ、あの嫁には頭が上がらぬ愚弟である。母の居た頃と違って、今は、相当な地獄であろうよ。

 

そんなことを考えれば、我が母は、偉大であったわな。

亡くなる直前の体重は、30kgを割っていて、モノ覚えも悪くなり、あれ程、じっとしていられないくらいであった母だけれど(小学校のときの兄の作文では、休むことなく、コマネズミのように働き回っていたと表現した)、殆ど動くこともなくなっていて、そんな前兆を見ていても、まだ当分は、生存してくれるだろう・・・せめて数年は・・・くらいに、甘く考えていた私も、相当なバカであった。

 

そんな母が、私と愚弟夫婦、そして愚弟夫婦間の緩衝材になり、母とその居室は、中東パレスチナのガザ地区???でもあったのだった。

その緩衝地帯がなくなれば、当然、パレスチナ難民の如く、安住の地を求めて、彷徨わなければならない・・・(って、そんなに大袈裟なモノでもないけれど)。

愚弟は、嫁との緩衝材がなくなり、ガザ地区(母の居室)へ逃亡?というか・・・(違うか?)今の愚弟と嫁の緩衝材は、自分達の娘達であろうけれど、コレまた長女が、父である愚弟のことを蛇蝎?の如く、嫌っている・・・と先日の兄の法事で漏れ聞いた。

難民化した私は、無職だし、年齢的にも、賃貸を借りるのが難しいから、中古住宅を買うことを決断し、現在に至っている。

この場所が安住の地となるか・・・否かは、わからずとも・・・。

 

この雷都で暮らすことを、私は決めた・・・。

 

そして、今日は、母が亡くなった日曜日でもあり、強い風が吹き荒んでいる。

母の法事には、強風が吹く・・・そんなことを思い出した。

母が、反対しているのかな???と一抹の不安はあるけれども・・・。