日中は穏やかに晴れて、暖かいものの、早朝は、氷点下4度。
夜間、外に出てみると、それ程、寒くはなくて、やはり明日は、予報通り暖かいのかもしれない。
寒い寒い・・・と言っている間に、春は確実にやってくる。
春になりかけのこの時期は、母の亡くなった時期だし、長年一緒に暮らした三毛猫も姿を消した日でもあって、やはりこの時期は、ちょっと感傷的になったりする。
そろそろミモザの花の出回る時期だろうし、フラワー・ショップに入荷されていたら、また買いたいと思う。
母も猫も・・・。
なんの未練もなく?私の前から居なくなったけれども、彼女達は、本当に居たのか・・・と言えば、居たかもしれないし、居なかったのかもしれないし・・・。
でも、確実なのは、今現在は、居ない・・・ってことだけで、もう過去には戻ることができないし、確かめようもないけれど、彼女達の居た頃の写真は、存在の唯一証明なのかもしれない。
でも、この写真は、本当に母と猫なんだろうか?どこか知らないよく似た他人と猫なのかもしれないし???
私が、半世紀住んでいた家も、まだ有るのだろうし(これは、現地に行って確認ができることだけれど、あの愚弟とは会いたくない。会いたくもないヤツが実在していて、会いたい母が、居ないなんで、なんて、皮肉なんだろう・・・と、いつも考えてしまう。それ程、確執があるのだろう。ホント・・・もう二度と会いたくもないけれど、今年は兄の三回忌だから、会うのは必然かな?でもあの愚弟は、母の三回忌に、喪主なのに、法要に来なかった。だから会わずにすめばいいな・・・と思っている)あの家に、母と猫が居た頃が、たぶん、私には、一番、幸福な時期だったんじゃないか・・・と思ったりする。
母が、割と元気で、好きな事をしていた時期と猫が居た時期が重なっていた。
猫については、迷いネコで、いつの間にか、居ついてしまったので、私の意志は関係ないせいか、いつも、きっと、いなくなってしまうんだろうな・・・と考えていて、いついなくなってもいいように諦めることにしていたので、ちょっと姿が見えないと、もう帰ってこないんだ・・・と思う癖がついていて、もう諦めた・・・と思うと、ちゃんと戻ってきたりして、そんなこんなで、15年くらい一緒に居た。
母に関しては、居なくなる・・・ということが、想定できずにいたけれど、やはり歳を取って、母が外出して、ちょっと帰りが遅くなると、どこかで、倒れているのではないか、事故にあったのかも・・・と悪いことばかり想像していて、無事に帰ってくると、今度は、いろいろと煩くて、居ても居なくても、心配していた。
・・・今は、その心配はない。
だって、もう母は、居ないんだもの・・・えっと・・・そう・・・もう居ない。
居ないのだけれど、居たことはあったのだけれど、今どこにいるんだろう???ああ、そうだったそうだった・・・あの日・・・ものすごい風の吹いた日に火葬して、そのあと、四十九日の法要で、あの日も、風が強くて、おまけに雨も降ってきたりして、あの川の崖っぷちにある墓所に納骨したではないか・・・。
わかっているのに、わからなくなる感覚は、夢をみた後と同じような感覚。
そのうち、そっちへ行くからさ。ちゃんとお迎えに来てよ。
『向こうで待ってるよ。』
って、そんな手紙をくれたっけ・・・。
猫には、会えたかいな???
なんだか、よくわからないヘンな文章になってしまった(いつもだけれど)。書いてる本人も何が言いたいのかよくわからなくて、ちょっと混乱していたりするすこしだけ暖かくなった春宵。