友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

アウトサイダーたち

2008年01月07日 22時15分09秒 | Weblog
 今日は朝からズーと、市民のための勉強会である「大和塾」の関係のものを整理していた。2月2日の第7回市民講座の案内チラシを届けるために、これまでの講演会に参加してくださった皆さんの住所をパソコンに打ち込んだ。手書きの文字が読みにくかったり、不明な部分を調べたりしていたら、予想以上に時間がかかってしまった。

 さて一応、住所録はできたけれど、これをラベルシートに印刷するのはどうするのだったかと思案している。何年もやってきたのに、いつもいつも思い出せずに苦闘しなければならない。この作業は明日に延ばすことにして、気になっていた友だちのブログを見るが、まだ昨日のままだ。何が気になるかと言えば、年末に受けた検査の結果について今日、医師から話があったはずだからだ。

 夕方になって、その友だちから電話が入った。「結果は陰性だったんだが、内科の段階ではここまでしかわからないから、今度は外科で調べてもらってくれと言われた」と言う。そのための再検査は1月下旬というのでそれまでにまた皆で飲もうかということになった。そうすることが彼を元気付けることであり、中学・高校と同じ時間を過ごしてきた仲間にできることだと思った。

 日頃は「昔のことなんか、屁にもならん」と言い放つ友だちも「死ぬ前にやらんとな。それでいつならいいんだ。俺はいつでもいいぞ」とすこぶる元気に言う。みんながみんな、もう私たちの時代ではないことを痛感しているのだ。私たちが生きてきた時代は右肩上がりの高度成長期だった。だからこそ反体制的な言動に心魅かれたし、アウトサイダーな生き方をしてきた。

 企業中でしっかり働きながら、企業に溺れないように自分を戒め、やり手であることとそれに反発している自分とが相反して共存している。恥ずかしながらと言うべきか、いや誇りと感じるべきか、そんな矛盾した私たちがいた。それも今ではただの老いぼれジジイである。私たちが軽蔑してきた年寄りと何も変らない年寄りに私たちもなってしまった。

 人生の最後に求めるものは何だろう。自分が生きていることを認めてくれる人がいることなのだろうか。愛することができずに、愛して欲しいばかりの薄汚い人にはなりたくないのに、いったい何ができるのだろう。
コメント (2)
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