ペースメーカー埋め込みの時、点滴などもなくなった私は、「病院内なら歩いてもいい」と言われた。その時も退屈だったのか、必要な物があったのか、パジャマを脱いで普段の服に着替え、コンビニへ買い物に出かけたらしい(記憶にない)。次女が「今回も着替えて行ったの?」と聞くので、「一歩も病室から出なかったよ」と答えた。
どうしてそんなことを聞くのかと思ったら、「パパのことだから、また着替えて行ったんじゃーないのかとみんなで話していたの」と言う。「病室から出てコンビニへ行くのなら、着替えるのが常識でしょう」と言うと、「そらね」と次女が娘と大笑いしている。どうも私はヘンなところにこだわる性格のようだ。
今朝、長い付き合いのある先輩から電話があった。コロナでどこへも行けず、息が詰まりそうで、「あんたの声が聴きたくなった」と言う。電話で話すことならいつでもどうぞと応対する。家には奥さんとふたりしかいないのに、奥さんとは話が出来ないと嘆く。その奥さんはデーサービス先で友だちができて行くことが楽しいのに、「自分は行っても面白くない」と言う。
「奥さんが楽しいならヨシとしようよ」と励ます。議員までやった人だから、自分の存在を認めて欲しいのだ。しかし、ただのボケ老人となってしまえば、声もかけてもらえない。昔の栄光を求めてはダメだと思うが、「きっといいこともあるから、元気出していきましょう。なかなかコロナで会えないけど、必ず会えるようになるから」と言ってしまう。
私を含めて、年寄りはどうしても孤独になる。先に希望が無いからだと思うが、嘆いていてもどうにもならない。今日出来ることを淡々とこなす他ない。彼が本好きなら読書を勧めるが、本など読んだことのない人だ。何がいいのか考えてみよう、いや、そんな余裕が私にあるのかと思った。確かに人は人の中でしか、喜びも生き甲斐も感じられない。先輩が言うように、最後の恋こそが大切なのかも知れない。今日、偶然に小栗旬主演の太宰治を観た。『鎌倉殿の13人』の北条義時より迫力があった。