友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

表舞台に立つ人、立てない人

2012年01月19日 19時04分29秒 | Weblog

 雨が降っている。何日間ぶりの雨なのだろう?冬の雨は重い。空が暗く、雨粒がいっそう冷たく見える。草木はこんな冷たい雨でもありがたいのだろうか。秋は人恋しくなるが、冬の雨は人肌が恋しくなる。

 

 『今日の書展』に一緒に行ってくれた友だちからメールが来た。「ブログで松山のこと、ふれていただきありがとうございます。ただし、秋山さんは西條市出身、大江健三郎さんは喜多郡内子町出身です」とあった。龍さんからもご指摘をいただいたけれど、実は私も書いていてもなんとなく不安だった。それでインターネットで松山出身の人を調べ、そのまま載せてしまった。でも、大江健三郎さんの文章を読むと、故郷はすごい山の中だとは知っていたので、松山の外れの山中なのだろうと勝手に解釈してしまった。

 

 西條は今治よりも東にあり、内子町は松山から八幡浜に向かう山の中だ。地図を見ていると、ここからこの人が出てきたのかと思う。戦国の末期を締めくくった織田、豊臣、徳川の3人が愛知県の出身であることも面白いと思うし、明治政府を担った人々に長州藩出身が多いのも、当たり前と言えばそうだけれど、でも考えてみれば不思議な気がする。

 

 明治政府の要職に就いたのは萩の松下村塾の人々だが、そんなに多くの優秀な人材をどうして育てることが出来たのだろうと思う。でも考えてみれば歴史のたまたまに過ぎないだろう。表舞台に立つ人々は、言ってみればそうしためぐり合わせに運命付けられていたのだ。どこにでも同じように優秀な人材はいるはずだけれど、歴史の舞台に踊り出る人は限られているということだろう。

 

 織田や豊臣や徳川が政治の実権を握っても、それはトップが変わるだけのことで普通の人々にとっては同じことだった。明治維新は下層武士が原動力となった政変だったから、人々の期待も大きかった。島崎藤村の『夜明け前』は新政府に対して期待しながら、何も変わらないことへの失望が描かれている。しかし明治政は藩閥政治に留まっていることはなかった。西洋からの外圧があり、人々の新しい政治への思いを押さえることは出来なかったからだ。

 

 明治初期には取り残された武士たちの反乱があったが、武力では新政府に勝てなかった彼らは「自由民権運動」へと形を変えていった。東北の福島などで民権運動が盛んになのもこうした背景があるだろう。殿様を頂点とする世襲のピラミッド型社会が崩壊すると、多くの人々が活躍の場を求めて自由に動き出した。それが明治という時代だったと思う。

 

 私の母は知多半島の田舎の農家に生まれたけれど、親は女学校へ行かせた。母の親は新しい時代を受け止めていたのだろう。私が中学を卒業する頃までは、優秀な生徒でも親の都合で就職させられたり、普通高校ではなく商業科や家庭科に行かさせられた。だから、高学歴を求めて子どもを大学へ行かせる親が多い。

 

 生きている時代、その流れ、表舞台に立つ人、優秀なのに表に出ることが出来ずに終わる人、様々な人生がそこにある。

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