友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

人は日常にある

2014年06月11日 17時51分27秒 | Weblog

 朝方、まどろんでいた。「人は日常にある」という言葉が行ったり来たりしていた。今いるところが日常である。常日頃の有様が日常で、そうでない状態が非日常であるから、毎日飛び回っている人なら、その人の日常は多忙な日々で、非日常はぼんやりと家族団らんで過ごす時ということだろう。家事をこなし、働いて家に帰り、家事をして眠りに就くことを繰り返している人なら、旅行は典型的な非日常である。

 「人は日常にある」から、別の世界である非日常に憧れる。いやそうではなくて、非日常である別の世界に憧れるのだ。私の中学からの友だちが、17歳下の友だち以上恋人未満の女性と付き合っていた。彼女と一緒にいる時は、家庭も仕事も忘れてしまうというのは大げさだが、ウキウキと楽しいひと時だったはずだ。彼は「あくまでもプラトニックな関係で、これは誰にも理解できない」と言ったが、同級生はみな「ウソだろう」と否定した。

 彼は彼女とデートの時、プレゼントしたものを身につけて来ないとか、他の男と親しく話すとか、異常なほどヤキモチを焼く。髪を撫でたり、手を握ったり、「心の内では」抱きしめたいと思ったりもしている。それは男と女の通常の姿だと思うけれど、「プラトニックだ」と彼は言い張る。彼は非日常に憧れていたのだ。心の中で思い描くだけでなく、恋愛を演出していたのだが、友だち以上恋人未満なら不倫ではないと決め込むことで自分を納得させていたのだと思う。

 街ではアジサイが見頃を迎えている。我が家のアジサイは花芽が黒く焦げたようになってしまった。今年は順調で、見事なアジサイが見られると思っていただけに誠に残念だ。私は強風のせいだと思っていたが、農学部出身の友だちは「土の中のウイルスが原因」と診断する。花は日常にあっても非日常を感じさせるが、ボロボロになってしまった花芽を見せられると、日常の空しさに引き戻されてしまう。

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