W杯で日本チームは、1勝も出来ず1次リーグ敗退だった。新聞の見出しは「『井の中の蛙』崩れた自負」と手厳しかった(中日新聞)。勝てなかった理由を「この4年間、監督や選手はどんな試合結果にも『ぶれずに理想を追求する』と言い続けてきた。だが、いつしか『ぶれない』ことが目的化」、「理想の下に覆い隠されてきた欠点が本番であぶりだされてしまった」という。
熱狂的なサッカーファンでも、熱烈なスポーツ大好き人間でもない私は、「負けたものはしょうがない」と思ってしまう。スポーツでも試験でもコンクールでも、何でもそうだけれど、競い合っているのだから負けて嬉しいわけがない。勝ちたいし、合格したいし、トップになりたい。競っている誰でもがそう思っている。
けれど、そうなれなかった時、どう現実を受け止めるかだ。悔しいという思いが次へのバネになるだろうし、なぜ負けたのかを分析することは次の勝利につながるだろう。当事者はきっとそんな作業に取り掛かっているはずだ。周りは、落ち込まないように気配りするのが日本人の習性で、他の国の人に言わせれば、「敗北に美学を持ち込む」ということなのかも知れない。
「試合では負けたが、内容では勝っている」とか、「責任の追及はせず、水に流して出直そう」とか、優しいと言えばそれまでだが、どうも曖昧模糊にしてしまう傾向がある。負けた試合の会場のゴミを拾う姿や、勝ったコロンビアの選手が落胆する日本の選手の肩を抱きかかえる姿に「美」を感じてしまうのは私だけではないようだ。
だからザッケローニ監督が試合後の記者会見で、辞任を表明した潔さに「美」を見た。先日の小椋佳さんのCD『闌』の「顧みれば」という歌がある。その歌詞に「友の支え 女性の救い 出逢いの恵み 数多く 運良く受けて 来たと思う 運命を 満喫したと 思われる今」とある。小椋さん自身の気持ちなのだろうが、同じ年月を生きてきた者の気持ちでもある。やっぱり日本人的な感性だなと思う。