《塵の中》明治26年7月?8月
【442ページ】
落ちぶれてそでに涙がかかるとき人の心の奥ぞしらるるとは、げにいいける言葉かな。たらぬことなきそのむかしは、人はたれもたれも情ふかきもの、世はいつとてかわりなきものとのみ思いてけるよ。人世之行路難は、人情反ぷくの間にあるこそいみじけれ。父兄世におわしましける昔しの人も、ここにかく落はふれぬる今日の人も、見るめに何のかわりは覚えざれど、心ざまのいろいろを見れば、浮世さながらうつろいぬる様にこそおぼゆれ。さればこそ人に義人君子とよはるるは少なく、貞女孝子のまれなるぞ道理なる。人はただ、その時々の感情につかわれて一生をすごすものなりけりな。あわれはかのよや。さりとてはまた哀れのよや。
【448ページ】
まだ捨てがたき葉桜の、色を捨ててのあきないと見れば、大悟のひじり(悟りをひらいた高僧)の心地もすれど、あるいは買いかぶりの我れ主義にて、仇な小歌の声自まん、これに心をとどめよとにや。すけんぞめき(ひやかし客の浮かれたさわぎ)の格子先、ちょっと一服袖引たばこと、あがれあがるの問答に、心うかるるたわれをばしらず、----。
[Ken] 「お金の切れ目は縁の切れ目」とか、「もしもの時に頼りになるのは家族だけ」とか、誰しも一度や二度は痛感してきたことと存じます。442ページの「人はただ、その時々の感情につかわれて一生をすごすものなりけりな。あわれはかのよや。」と言われたら、とくに63歳ともなれば、なおさら「はい、はい、そのとおりの年月でした。これからも多分、そうでしょう」と認めざるを得ません。
448ページの「ちょっと一服袖引たばこ」というのは、風情のある言葉ですね。
(つづく)
【442ページ】
落ちぶれてそでに涙がかかるとき人の心の奥ぞしらるるとは、げにいいける言葉かな。たらぬことなきそのむかしは、人はたれもたれも情ふかきもの、世はいつとてかわりなきものとのみ思いてけるよ。人世之行路難は、人情反ぷくの間にあるこそいみじけれ。父兄世におわしましける昔しの人も、ここにかく落はふれぬる今日の人も、見るめに何のかわりは覚えざれど、心ざまのいろいろを見れば、浮世さながらうつろいぬる様にこそおぼゆれ。さればこそ人に義人君子とよはるるは少なく、貞女孝子のまれなるぞ道理なる。人はただ、その時々の感情につかわれて一生をすごすものなりけりな。あわれはかのよや。さりとてはまた哀れのよや。
【448ページ】
まだ捨てがたき葉桜の、色を捨ててのあきないと見れば、大悟のひじり(悟りをひらいた高僧)の心地もすれど、あるいは買いかぶりの我れ主義にて、仇な小歌の声自まん、これに心をとどめよとにや。すけんぞめき(ひやかし客の浮かれたさわぎ)の格子先、ちょっと一服袖引たばこと、あがれあがるの問答に、心うかるるたわれをばしらず、----。
[Ken] 「お金の切れ目は縁の切れ目」とか、「もしもの時に頼りになるのは家族だけ」とか、誰しも一度や二度は痛感してきたことと存じます。442ページの「人はただ、その時々の感情につかわれて一生をすごすものなりけりな。あわれはかのよや。」と言われたら、とくに63歳ともなれば、なおさら「はい、はい、そのとおりの年月でした。これからも多分、そうでしょう」と認めざるを得ません。
448ページの「ちょっと一服袖引たばこ」というのは、風情のある言葉ですね。
(つづく)