子曰く、君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず。(子路)
先生はおっしゃった。君子は愛にのっとって人に和すが、意見の違うところははっきりと、違うという。しかし小人は、表面上は簡単に意見をあわすが、内心は決して和しているわけではない。
人間というものはみんな、「おんなじで、ちがう」ものです。すべては「自分自身」というもの。みな同じように、愛したり、悲しんだり、苦しんだり、喜んだりするもの。すべて、己自身であるから、感じるところがあり、それぞれに、それぞれ自身の、美しい人生を、つくってゆけるもの。
同じだからこそわかる。たとえ目指す道は違っても、意見は違っても、あいつも同じ人間だから、苦しいのだ。悲しいときは悲しい。つらいときはつらい。うれしいときはうれしい。あいつも、わたしとおなじ、人間だ。それがわかっている人間は、決して、その人間性を壊したり、本当の人間としての幸福、自分自身であるという美を、冒したりはしない。それは人間として、当然のことだからです。
たとえ相手が、真っ向から対立する意見の持ち主でも、苦しいことはしない。それが当たり前なのだと、わかっているのが、君子だと、孔子は言っているのです。
しかし、小人は、そこのところが、まったくわかっていない。相手と自分はまったく違うものだと思っている。多くの場合、おれのほうがずっとえらいと思っている。それは自信のなさの裏返しでもあるのですが、小心者の常から、表面上はいつも回りに意見をあわせ、「そうだ、そうだ」と適当に言っている。だが、いったん逆風にあたると、いとも簡単に態度を豹変させ、意見を翻し、あっさりと逃げてゆく。
要するに、「自分自身」とは何かと、わかっているものは、決して、人生の美を汚そうとはしないのです。美しいものは美しいという。何があろうと、態度が変わることはない。
ほかに、論語には、「歳寒くして、然る後に松柏の彫むに後るるを知る」というのがありますね。逆境に落ちて初めて、その人の真価がわかるというものです。さて。
苦しいときほど、やるのが、君子ということです。
先生はおっしゃった。君子は愛にのっとって人に和すが、意見の違うところははっきりと、違うという。しかし小人は、表面上は簡単に意見をあわすが、内心は決して和しているわけではない。
人間というものはみんな、「おんなじで、ちがう」ものです。すべては「自分自身」というもの。みな同じように、愛したり、悲しんだり、苦しんだり、喜んだりするもの。すべて、己自身であるから、感じるところがあり、それぞれに、それぞれ自身の、美しい人生を、つくってゆけるもの。
同じだからこそわかる。たとえ目指す道は違っても、意見は違っても、あいつも同じ人間だから、苦しいのだ。悲しいときは悲しい。つらいときはつらい。うれしいときはうれしい。あいつも、わたしとおなじ、人間だ。それがわかっている人間は、決して、その人間性を壊したり、本当の人間としての幸福、自分自身であるという美を、冒したりはしない。それは人間として、当然のことだからです。
たとえ相手が、真っ向から対立する意見の持ち主でも、苦しいことはしない。それが当たり前なのだと、わかっているのが、君子だと、孔子は言っているのです。
しかし、小人は、そこのところが、まったくわかっていない。相手と自分はまったく違うものだと思っている。多くの場合、おれのほうがずっとえらいと思っている。それは自信のなさの裏返しでもあるのですが、小心者の常から、表面上はいつも回りに意見をあわせ、「そうだ、そうだ」と適当に言っている。だが、いったん逆風にあたると、いとも簡単に態度を豹変させ、意見を翻し、あっさりと逃げてゆく。
要するに、「自分自身」とは何かと、わかっているものは、決して、人生の美を汚そうとはしないのです。美しいものは美しいという。何があろうと、態度が変わることはない。
ほかに、論語には、「歳寒くして、然る後に松柏の彫むに後るるを知る」というのがありますね。逆境に落ちて初めて、その人の真価がわかるというものです。さて。
苦しいときほど、やるのが、君子ということです。