子貢曰く、君子の過ちや、日月の食のごとし。過つや人みなこれを見る。更むるや人みなこれを仰ぐ。(子帳)
子貢がいった。君子の過ちは日食や月食のようなものだ。過つと、人はみなこれを注目する。君子がそれを改めると、また人々は仰ぎ見るようになる。
子貢は、孔門三哲に数えられる、孔子の高弟のひとりです。才能ある人だったようですが、少し利に走りすぎるきらいがあり、その難点をよく孔子につかれていたようです。
このことばも、やはり、甘いな、と感じるところはあります。君子が過ちを犯しても、それを改めれば、またもとのように仰ぎ見られる。実際のところ、そういうことは、滅多にありません。人の上に立つ君子であればこそ、過ちは大きな結果を生む。それはただ、改めればいいなどというものではありません。
日食や月食は、すぐに終わりますが、君子が過てば、大きな害を及ぼすのです。
要するに、君子は、仁にたがうという失敗は、決してしてはならないということです。
人間は必ず失敗をするものですが、許される失敗と許されない失敗がある。君子が仁を離れ、真実を裏切るという過ちは、絶対にしてはならない。それをすれば、すべてが、おそろしく狂ってくるからです。
子曰く、政をなすに徳をもってす。譬えば北辰のそのところにいて、衆星のそれに共かうがごとし。(為政)
先生はおっしゃった。政治の根本は人としての徳性である。たとえば、動かざる北極星の周りを、ほかの星が回っているようなものである。
つまり、君子は、仁においては、北辰のように絶対に揺れ動いてはならない。決して、人としての真を外れてはならない。それができなくては君子ではないのです。
子貢は、君子たるものの意義が、まだよくわかっていなかったようです。利に強いものは、知恵に走りやすい。要するに、小ざかしく作ろうとする。そこにほころびができると、あわててとりつくろう、ということをしていたのでしょう。それで、何とか、君子をやっていたというところなのではないかな。
君子にあるまじき過ちをなしてしまった場合は、いったん君子の名を脱ぐのが相当でしょう。そして、最初からすべてをやりなおすがいいでしょう。再び仰ぎ見られることは、たぶん、一生のうちにはないでしょう。もっとも、君子は仰ぎ見られることを望むものではありません。ただ、人々が幸せであればいいと願うものです。それがかなっているのであれば、でくのぼうのように、田舎のあばらやで笑っていてもいいのです。
人間は未熟なもの。失敗は必ずするもの。君子が仁を離れるという失敗は、普通ないものですが、もしそれがあったのなら、すべてを改め、すべてを認め、すべてをやりなおすべきです。そして、あらゆる失敗に共通することですが、なしてきたことをよきこととするために、本当の自分として、やれることを、やっていくことです。苦しいほどの、時間がかかることを、覚悟して。
これはたまらなく苦しいこと。なぜなら、君子として、絶対にやってはならないことをやってしまったからです。君子の重大な過ちには、厳しすぎるほど厳しい結果が待っていると、覚悟せねばならないのです。
子貢がいった。君子の過ちは日食や月食のようなものだ。過つと、人はみなこれを注目する。君子がそれを改めると、また人々は仰ぎ見るようになる。
子貢は、孔門三哲に数えられる、孔子の高弟のひとりです。才能ある人だったようですが、少し利に走りすぎるきらいがあり、その難点をよく孔子につかれていたようです。
このことばも、やはり、甘いな、と感じるところはあります。君子が過ちを犯しても、それを改めれば、またもとのように仰ぎ見られる。実際のところ、そういうことは、滅多にありません。人の上に立つ君子であればこそ、過ちは大きな結果を生む。それはただ、改めればいいなどというものではありません。
日食や月食は、すぐに終わりますが、君子が過てば、大きな害を及ぼすのです。
要するに、君子は、仁にたがうという失敗は、決してしてはならないということです。
人間は必ず失敗をするものですが、許される失敗と許されない失敗がある。君子が仁を離れ、真実を裏切るという過ちは、絶対にしてはならない。それをすれば、すべてが、おそろしく狂ってくるからです。
子曰く、政をなすに徳をもってす。譬えば北辰のそのところにいて、衆星のそれに共かうがごとし。(為政)
先生はおっしゃった。政治の根本は人としての徳性である。たとえば、動かざる北極星の周りを、ほかの星が回っているようなものである。
つまり、君子は、仁においては、北辰のように絶対に揺れ動いてはならない。決して、人としての真を外れてはならない。それができなくては君子ではないのです。
子貢は、君子たるものの意義が、まだよくわかっていなかったようです。利に強いものは、知恵に走りやすい。要するに、小ざかしく作ろうとする。そこにほころびができると、あわててとりつくろう、ということをしていたのでしょう。それで、何とか、君子をやっていたというところなのではないかな。
君子にあるまじき過ちをなしてしまった場合は、いったん君子の名を脱ぐのが相当でしょう。そして、最初からすべてをやりなおすがいいでしょう。再び仰ぎ見られることは、たぶん、一生のうちにはないでしょう。もっとも、君子は仰ぎ見られることを望むものではありません。ただ、人々が幸せであればいいと願うものです。それがかなっているのであれば、でくのぼうのように、田舎のあばらやで笑っていてもいいのです。
人間は未熟なもの。失敗は必ずするもの。君子が仁を離れるという失敗は、普通ないものですが、もしそれがあったのなら、すべてを改め、すべてを認め、すべてをやりなおすべきです。そして、あらゆる失敗に共通することですが、なしてきたことをよきこととするために、本当の自分として、やれることを、やっていくことです。苦しいほどの、時間がかかることを、覚悟して。
これはたまらなく苦しいこと。なぜなら、君子として、絶対にやってはならないことをやってしまったからです。君子の重大な過ちには、厳しすぎるほど厳しい結果が待っていると、覚悟せねばならないのです。