子曰く、人の過つや、おのおのその党においてす。過ちを観れば、ここに仁を知る。(里仁)
先生はおっしゃった。人はだれしも、その人らしい過ちをするものだ。その過ちを観れば、その人が何をやれば仁となれるかがわかる。
この訳は、我流の訳です。手元の資料の訳とは、だいぶ意味が違いますが、論語はそれぞれ、読む人によって微妙に意味が違いますね。それぞれ、読みたいように読んでいるんでしょう。
失敗ということを、ここ最近、よくテーマに選んで書いています。わたし自身、失敗の連続のような人生でしたが、ここまで何とかやってこれた。それは要するに、そのときどきに、自分の失敗に気づいて、それをなんとか改めるべく、ことごとくやってきたからです。だから、苦しいことはありましたが、ほとんど、道を外れずに生きてくることができた。
けれども、世の中には、ほとんど失敗をしないという顔をしている人がいて、なんてすごいんだっていう感じで、生きている人がいるのです。何でそんなことができるのかと、注目していると、少しずつ嘘がすいて見えてくる。彼らは失敗をしないのではなく、失敗を隠しているのです。そして、失敗を失敗にしないように、自分よりも世間のほうを悪くして、なんとかしているだけなのです。でもそれだと、失敗がばれたときに、大変なことになってしまう。それまで、失敗をごまかすためにやってきたことが、いっぺんに降ってくるからです。
よくもまあ、ここまでやってきたのかと、世間があきれ返るような事実が、たくさん明らかになる。最近、新聞やネットなどで、こんな感じのニュースには、事欠かなくなってきましたね。
要するにその人たちは、弱かったのです。自分が失敗してしまった、ということを、素直に認めることが、できなかった。そこを乗り越えられなかった。だから、うそをついてしまい、そこから、あらゆるうそを積み重ねていかなければならなかった。
失敗をみれば、その人がわかる、ということが、表題のことばの大意ですが、要するに、明らかになった失敗を、つぶさにみていけば、自分のどこが弱かったかがわかる、ということです。そして、これからしていかなければならないことが、わかる。
わたしは、弱かったのだ。だから、あらゆる嘘をついてしまった。たくさんの人を裏切ってしまった。だからわたしが、これからしなければいけないことは、嘘をつかないようにするということなのだろう。そのために、たくさんのことを、しなければならないということなのだろう。
失敗は、絶望なのではありません。失敗したからといって、自分がすべてだめになったということではない。希望は常に未来にある。そして何を失っても、自分の頭と手足だけは残っている。何かをやるための最低限の道具だけは、絶対に奪われない。
まずは。
これから何をしていくべきなのかを、考えるのだ。