◇ 『光のない海』 著者:白石 一文 2015.12 集英社 刊
高梨修一郎(50歳)建材商社徳本産業の社長。一人の中年経営者の物語である。
格別強烈な個性を持っているわけでもないし、特に優れた経営能力を持っているわけでもない。
ごく普通の価値観を持っている人ではあるが、実はこれまでの人生は結構強烈なもので、当た
り前ではない過去がある。
妻子と別れ独身生活となって久しく、特に親しい友人もなく、孤独な毎日を送っている。めった
に笑わない。
小5の時に父が失踪、小2の妹篤子が交通事故(加害者=徳本産業社長徳本京介)、癌による
母の死、徳本京介の死後妻の徳本美千代による過剰な庇護、徳本産業への就職、美千代との隠秘
な関係、美千代の娘淳子との結婚、息子舜一の誕生、妻の不倫実発覚、篤子の早世(勤務先上司
との不倫が因で自殺)、徳本産業社長就任、元妻淳子の再婚相手宇崎(高梨の元同僚で、淳子と
の不倫を知った妻が美千代の社長室で焼身自殺を図り、宇崎は馘首された)と主要取引銀行によ
る徳本産業乗っ取り工作…。
うち続く荒波にもまれながら懸命に生きてきた高梨は、誰とも繋がれない孤独をひしひしと感
じながら、30年以上にわたって自らの人生を拘束してきた徳本産業と、亡き徳本美千代の呪縛か
ら早く解放されたい、完璧な独り身となりたいと請い希っている。
別れた妻は、自分の母親と夫がかつて愛人関係だったことを知っていたのだろうか。いつも心
にかかっていた暗い疑問。宇崎の会社乗っ取り工作の真意を聞こうと元妻淳子に会った高梨は、
彼女は宇崎とは2年前から別居状態だと知る。そして母親と高梨の関係も知っていたことも。
心に巣喰う絶望は生き方も変えてしまうのか。自分の息子が実は妻の不倫相手の子だと知っ
て、妻子と別れてから肉体的にも精神的にも女性に全く関心を失ってしまっていたのだ(p182)。
薄幸な少年時代を送った高梨は自分の子だと思っていた舜一を溺愛した。そして別れたのちも
夢の中で中学生になった舜一を思いっきり抱きしめた。望んでいた幸せな家庭生活がやっと得ら
れたと思っていのに、別れたはずの宇崎との不義密通の子だと知らされた。天罰だと思った。
そんな滝本の前に筒見花江という、これまた強烈な人生を歩んできた一人の中年女性が現れる。
彼女とその祖母との交流が生まれた。花江とは境遇が重なり合っているような気がするのだ。
ある日そんな花江から同棲を提案される(しかし実を結ばなかった)。面白い横軸である。
琵琶湖の夕方、湖面に金色に光る蛇のような紐が見える。高梨は吸い寄せられるように湖水に
踏み入り、引き寄せられるように進む。意外なエンディングシーン。
「水が光そのものになったように感じて…もう二度と水の中から出たくないと本気で思う」。
作品中、バリで死ぬ前に篤子が話した言葉が三度も繰り返し出て来るのはこの伏線だったのだ。
企業小説の色合いも持った面白い作品に出合った。
白石一文は2010年に『ほかならぬ人』で直木賞を受賞している。
(以上この項終わり)