読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

カズオ・イシグロ『遠い山なみの光』

2018年09月17日 | 読書

◇『遠い山なみの光』 (原題: A Pale View of Hills)

                           著者:カズオ・イシグロ(Kazuo Ishiguro)
                         訳者:小野寺 健
                             2001.9 早川書房 刊(早川文庫)

  
  作者の処女長編作。
 一人称で語るのはイギリス在住の悦子。久しぶりに訪ねてきた二女のニキとの会話をきっかけに、戦
争が終わってしばらく経った原爆被災の地、長崎での最初の結婚当時の記憶中心に語られる。

 悦子を取り巻く人々といえば悦子の最初の夫二郎。その父緒方さん。川向こうの一軒家の佐知子との
その娘万里子。うどん屋の藤原さんなど。

 とりわけ悦子の近くに住んでいた佐知子とその幼い娘万里子との付き合いが印象的であり回想の中心
である。このころ悦子は二郎の子(景子)を身ごもっていて退屈な日々に佐知子親子と知り合った。
 電灯も引かれていない薄暗いあばら家に住み、悦子に働き口を頼むほどの貧窮の身に見えるけれども、
こうした今の生活ぶりが不本意な、立派な家の出であることをほのめかす佐知子の物言い。子供の育て
方も何故か投げやりなところがで悦子を不安がらせる。

 佐知子は割と直接的な話し方をするが悦子は日本人らしいあいまいさに満ちた返事をする。二人の会話
はなかなかかみ合わない。
そもそも価値観が違うからだ。のちに悦子は再婚し英国渡るという決断する
のであるがこの時点では今の平穏な暮しを肯定しており、佐知子は当てにならない男にすがりアメリカ
に渡り幸せをつかむという夢に望みを託している。
 多分佐知子の心の裡では高揚した気分の底にはアメリカ人の男への懐疑と先行きへの不安がうごめい
ている。

 だから平穏な生活に安住している悦子に対しアメリカへ渡ることを自慢げに話し、「なにもかもうま
くいくわよ」といいながら、あまりうらやましがらない悦子に「喜んでくださらないの?」、「あなた、
わたしをバカだと思っているんじゃない?」と食って掛かる。
 一歩踏み出さなければ何も始まらないという佐知子に対し娘の万里子は今飼っている猫を連れていけ
るかどうかが問題で、その先のことに思いは及ばない。
 万里子は「私は行きたくない、あのひとは嫌い。フランクさんは豚のおしっこだ」という。
「とにかく行ってみて嫌だったら帰ってくればいいでしょう」悦子のそんな諭しは万里子には通用しな
い。
 

 悦子はなぜ二郎と離婚し英国人と再婚したのかよくわからない。女の景子は先夫二郎の子。イギリ
スに移ってから新しい国と家族になじめず、引きこもりから自殺している。
新しい父親とそりが合わな
かったらしい。
 自己主張がきつく、子供嫌いで、扱いにくそうな二女のニキ。姉の景子の葬式にも来なかった。ニキ
は「子供と下らない夫に縛られてみじめな人生を送っている女が多すぎる」といい、自分の母が過去に
選んだ道を肯定している。


 作者は何を言おうとしているのだろうか。人の一生なんて思うようにいくものではない。自分が望ん
でもそ
周りの人や他の不条理ともいえる事情でどんどん変わっていく。しかしそうした人生の山なみ
の彼方にもそれなりの光があると言いたいのだろうか。

 
作品の中でも敗戦という価値のパラダイムシフトの時代にあって、もがき悩む人々がいる。いまだに
伝統と過去の価値基準にこだわる緒方さん(元教師)、新しい民主主義に傾斜する教え子松田や息子の
二郎。占領時代の荒波に翻弄された佐知子、裕福な生活から一転うどん屋さんとなった藤原さん
 佐知子の生き方に懐疑的であった悦子も、結局いきさつは詳らかでないまでも離婚し子連れで英国人
と結婚するという道を選択している。万里子でさえ子猫を連れていけないアメリカには行きたくないと
言ったが、佐知子には子猫を川に捨てられてしまった。それぞれ自分ではどうしようもない大きな流れ
に翻弄されるのである。それでも我々は生きていかなければならない。とにかく一歩を踏み出さなけれ
ば、何も始まらないということか。
 

 「遠い山なみ」とは長崎の稲佐の丘陵地から眺めた山々を指すのかもしれない。
                                    (以上この項終わり)

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