◇『分裂国家アメリカの源流』
著者:水川 明大 2020.4 PHPエディターズ・グループ 刊
分裂国家アメリカという決めつけはずいぶん刺激的ではあるが、現アメリカ大統領
ドナルド・トランプの政治姿勢が明らかに分断姿勢であり、国内に危機感が巻き起っ
ている現状を見るにつけ、時宜を得た表題かもしれない。
アメリカ独立戦争時、ワシントン総司令官の右腕として活躍し、その後合衆国憲法
の制定に大きく貢献したアレクザンダー・ハミルトン。ワシントン政権では初代財務
長官として新生国家アメリカを破産の淵から救った。強固な統治国家アメリカを創造
するという確固たる目的に生涯を捧げた天才政治家であった。
ハミルトンは若くして銃弾に散ったが、アメリカ建国の父の一人として歴史に残る。
現在の10ドル紙幣の肖像はアレグザンダー・ハミルトンである。(ちなみに5ドル
札はアブラハム・リンカーン、1ドル札はジョージワシントン)
著者はこのハミルトンと初代大統領ワシントンという建国期における二人の英雄の
言動、建国の歴史をたどりながら、大国アメリカが内包する宿痾の源流を明らかにし
ようとする試みである。
<アメリカの独立戦争>
アメリカがイギリスに対し独立戦争を仕掛けたのは1776年。ヨークタウンで勝利を
得て独立を勝ち取ったのは1783年。8年の長きに渡り戦った独立戦争の 指導者ワシン
トンとその副官ハミルトンは、常に13の植民地諸邦の統合化に苦しんだ。各邦の主権
と独立の意識は強く、大陸会議という連合体の合議機関はあったものの、決めたこと
は守られず、軍隊兵士の提供、武器弾薬など兵站、軍資金の供給にも冷淡であった。
初戦でイギリス軍に奪われたニューヨーク邦は独立宣言までそのまま放置されてい
た。
独立戦争当時アメリカには13の植民地があった。
①北東部(ピューリタンの移民中心のマサチューセッツ、ニューハンプシャー、ロー
ドアイランド、コネチカットなど宗教色が強い)
②中部植民地(ニュージャージー、デラウェア、ニューヨーク、ペンシルバニアな
ど多様な移民が入植し多様性・国際性があり、寛容度が高い。ハミルトンはニューヨ
ークの出身)
③南部植民地(バージニア、メリーランド、ノースカロライナ、サウスカロライナ、
ジョージア)古くから英国王の勅許を得た植民地が多く、英国のエリート一族の子弟に
よる農業植民が主力。プア・ホワイト、奴隷が多い。ワシントンも大農場の領主)
これら植民地軍は独特のカラーを有し、宗教、価値観の違いからの反目・対立が根
強い。
アメリカ13の植民地諸邦は1776年7月4日、トマス・ジェファーソン起草になる独立
宣言を発した。
独立戦争の契機は二つある。一つは英国と仏国の7年戦争で英国が勝利し、アパラ
チア山脈以西とカナダ以南の土地を得たにもかかわらず(英国は主としてアメリカ植
民地の民兵を使って戦った)、西部の領地の取得を禁止したこと、二つ目は印紙税法
など重税の賦課にある。西部開拓禁止は南部諸邦の、交易への課税強化などは北東部
諸邦の大きな反発を招いた。
独立戦争に勝ったものの、各邦が主権を持つ連合規約では各邦間での不和・反目は
避けられず、国家としての統一感に乏しい現状を憂いたハミルトンは中央政府の再構
築を目指した。
憲法制定会議の開催は難航した。ワシントンを議長にジェームズマジソンの草案が
たたき台となって、連邦政府と邦(ステイト=州)の権限が明確となった。憲法案は
各邦における憲法会議の批准が必要であり、各邦で盛んな議論が展開された。
批准に最後まで抵抗したニューヨーク邦憲法会議はハミルトンの努力が実り僅差で
批准を決めた。そして各邦憲法会議で反対派が主張していた個人の権利章典の追加・
修正が連邦議会の第一の仕事となった。
<国家分裂の危機>
アメリカ分裂の危機は3回あった。
その一。1819年連邦管理の準州が人口増で州に昇格した。奴隷州と自由州はそれぞ
れ11州と均衡していたが、ミシシッピー川西のミズーリが州に昇格したとき奴隷州と
なると奴隷州が上院で優位になる。当然北部州は反対し、南部州の脱退の危機が訪れ
た。しかし下院議長のヘンリー・クレイがマサチューセッツ州からメイン州を切り離
し自由州とし上院での均衡を図るという案を提示し連邦は維持された。
その二。ジョン・c・カルフーンは連邦議会の傑出した指導者であったが、アメリ
カ製造業を保護するための保護関税法に噛みついた。製造業優位の北部にためにはな
っても低関税の自由貿易が望ましい南部農業州を犠牲にし北部を富ませるものとし猛
反対。「連邦政府の政策が違憲か否かは契約当事者の州に判定権がある。したがって
州はある連邦法に対し無効を宣言し、自州内での施行を拒否できる」という論法を展
開した。サウスカロライナ州はカルフーンの発案による「無効宣言条例」を可決し武
力対決を表明した。当時のジャクソン大統領はこれに激怒、チャールストンに軍艦を
派遣、内戦の危機を迎えた。しかしここでもヘンリー・クレイが登場、関税を段階的
に20%まで下げるという妥協案を提示、サウスカロライナは無効宣言を撤回した。
その三。1848年メキシコから強奪したカリフォルニアを時のテイラー大統領は奴隷
制反対の自治政府が出来ていたカリフォルニアを自由州として加入させる承認決議を
求めた。カルフーンは奴隷は財産であり、奴隷の所有を禁ずることは財産権の侵害で
あるという理論を展開し、南部諸州と北部自由州の対立が修復しがたい状況となった。
またもクレイが妥協案を作成し、ダニエル・ウェブスターが和解と統一を求める演説
を行い、大いなる妥協が成立し南部の武装も解除された。
<国家の分裂・南北戦争>
逃亡奴隷取締法は北部では遵守されず、カンザス・ネブラスカ法(大陸横断鉄道を
通すためカンザス準州、ネブラスカ準州を設け、奴隷制を合法とするか禁止するかは
住民判断にゆだねるとする法律)を契機に奴隷州・自由州は対立、南部11州はついに
アメリカ合衆国を離脱し「アメリカ連合国」を創った。しかし南部連合の依って立つ
理念は、州の独立性と主権を重視した連合規約の枠組みと同じのもので、やがて戦争
となっても統一した行動もとれず4年後には戦争に敗れ自滅した。
多大な犠牲を払い黒人の市民権・選挙権は憲法で保障されるに至ったものの実質的
な黒人の苦境はほとんど変わらず、南部人の差別意識は何ら変わらなかった。
現代にあっては人種に留まらず、宗教、ジェンダー、中絶、経済格差、移民など分
断ファクターは多岐にわたる。
おそらく著者はドナルド・トランプ大統領の言動に見られる現代のアメリカの分断
の深化を思わせる兆候を目の当たりにして、この危うい状況の行き着く先を見極める
ためには、アメリカの歴史の底流に潜む分裂、分断の源流を極めるしかないと筆を執
ったのではないかと思わせる。
著者からの感慨深い指摘が二つある。一つは憲法上「執行権は大統領に属する」と
あり、大統領に強大な権限が付託されているのは何故か。「容易に王となりうる」と
の懸念は、強すぎる立法府への懸念とのバランスをとると同時に、すでにアメリカの
象徴的・統合的人物となっていたワシントンが初代大統領と誰しも確信しており、彼
に権力の乱用などありえないと信じられていたからということ。いま一つは多様な国
家分断ファクターは共和党と民主党という二大政党の下に整理・融合され、政治イシ
ュー化され易い。白か黒か敵か味方かに収斂して、対立を過激化し同じアメリカ人と
しての地点を見出しにくくなっているという点である。
(以上この項終わり)