4回目となる松本地区原水禁としての福島ツアー。信州の米や野菜、リンゴも積み込み朝6時に松本を出発しました。途中北関東自動車道の宇都宮あたり?で見えたうろこ雲。常磐自動車道に入るとサービスエリアに高速道路の空間放射線量が示されています。
今回は沖縄中部地区労からもお二人が参加してくれました。福島第一原発からもっとも近い場所のバス車内での線量は2.192μ㏜。車外のモニターは3.8μ㏜でした。
今回はじめて浪江町請戸地区に入ることができました。震災から5年半たっても何も変わっていません。
請戸小学校の体育館のゆがんだ床にサッカーボールが転がっていました。かつて、歓声をあげて遊んでいた声が聞こえるようでした。
下駄箱の上にある、ゆがんだトロフィー。少年野球が強かったんですね。玄関に飾ってあるモニュメント、太陽と海とかもめと犬と子どもたち、もうもどれないのでしょうか。
給食室です。一部屋に機材が波に押し込まれています。
2年C組の鍋でしょうか。時の針は15時40分くらいで止まっています。地震は14時46分でしたから、それから50分くらいで津波が来て電源が失われたのでしょうか。
墓石も倒れたままです。富岡駅は、昨年までは津波の被害のままでしたが片付けが始まっています。
原発労働者相談センター代表の狩野光昭いわき市議から、最近の相談事例を聞きました。
いわき自由労組や福島連帯労組の方からも原発労働者や除染労働者のお話を聞きました。被ばく労働抜きには除染も廃炉もありえません。だからこそ、賃金や安全を確保しなければなりません。
いわき母笑みネット。健康診断の縮小や除染の終了など、考えられないことが今福島で進んでいます。翌日は飯舘村を訪れました。
積み上がるフレコンパックとフレコンパックの放射線量。来年3月に一部で帰村できることになる。
相馬市の応急仮設住宅で避難生活を続ける飯舘村の皆さんとの交流。フクイチの爆発から半月たってからの避難。この5年半で、近所の皆さんの中ではなくなった方もおおい。
飯舘村で牛を飼っていたSさん、牛をどうするか悩んだが、相馬市で豚をやっていた農家の豚舎を借りることができて続けてこれた。来年3月末で飯舘村に帰ることにした。3.11前までの飯舘牛としてのブランドがどうなるのか心配。
3.11のあと夫婦子ども家族で仙台に避難されたTさん、余りに寒くて一週間で飯舘村に帰る。家から出るなと言われてひっそりと暮らしていて、7月2日に仮設住宅にきた。今後は息子夫婦と相馬市で生活するつもり、また、あたらしい環境に慣れるまでが大変かなー。
3.10にご主人のお通夜をして、翌日の地震。栃木の鹿沼で、うつ病の息子と暮らしていたyさん。7月に仮設住宅に移る。これからは、相馬市につくられた災害公営住宅に移る。
三者三様のこれから、5年半仮設住宅で一緒に暮らしてきた。寂しさもある。
11月18日信濃毎日新聞