令和2年11月20日(金曜日)に開催された国の文化審議会(会長 佐藤 信)文化財分科会の審議・議決を経て、史跡等の指定について、同審議会から文部科学大臣に答申されました。今後、官報に告示され、正式に追加指定(指定範囲の拡大)されることとなります。
尖石石器時代遺跡(S27.3.29特別史跡指定)は、標高約1,070mの八ヶ岳西麓にある縄文時代中期の集落跡です。昭和5年に始まる宮坂英弌(みやさか ふさかず)氏 (小学校教員)の発掘調査により、日本で最初に縄文集落の構造が明らかにされた「縄文集落研究」の原点となった遺跡で、その後の調査を含め、200軒を超える縄文時代中期の竪穴住居址が発見されています。東西に流れる小河川によって形成された細長い台地上に立地する尖石遺跡、与助尾根(よすけおね)遺跡、与助尾根南遺跡の3遺跡からなり、台地上は居住の場、谷地形部は集落に居住した人々が飲料水の確保や、食料の獲得または加工した場と考えられます。今回、追加指定される範囲は、追加指定の条件の整った、湧水点を含む谷地形部と台地の一部です。
(以上、茅野市尖石縄文考古館ホームページより)
この指定が発表される一週間前の11月15日私は尖石縄文考古館を訪れ、守矢昌文館長から尖石遺跡の概要についてお話を聞いた。尖石遺跡の特徴は上記にあるように「日本で最初に縄文時代に集落があり共同体生活が行われていた」ということで、史跡の国宝である「特別史跡」に昭和27年に指定され、今回地域が追加されるものです。
尖石遺跡の発掘は、民間の個人である宮坂英弌氏によって発掘が行われてきたものです。宮坂氏についてはその栄誉を称え、考古学の研究に対して「宮坂英弌記念尖石縄文文化賞」が送られ、今年で21回目となり、11月22日授賞式が行われた記事が信濃毎日新聞に掲載されている。詳細は考古館のホームページを参照してください。
尖石遺跡が注目されたのは、国宝に指定された「縄文のビーナス」「仮面の女神」が有名であるが、「特別史跡」として集落跡が国宝と同等の指定を受けていることはあまり知られていない。縄文時代に、集落が形成され狩猟が中心であったと思われるが、どのような共同体生活が営まれていたのだろうか。あの様々な文様に映し出されている土器はどのように使われていたのだろうか。なぜ、文様が描かれたのだろうか。なぜ、場所的に尖石なのだろうか。説明を聞きながら疑問が次から次へと湧いてくる。お忙しい中ではあったが、守矢館長は私見を交えながら説明をしてくれた。
なぜ、この場所か?の疑問は、地名となっている尖石に理由がある。尖石とは縄文時代につくられた「矢じり」のことであるが、ここでは和田峠を中心として砕石された黒曜石が使われていた。黒光りし、太陽に透かせば様々な文様が浮き出る石である。この黒曜石を加工して矢じりとして使用されていた。かなりの大きさの共同体の暮らしを支えるための食料も八ヶ岳山麓に豊富にあったからでもあろう。
この黒曜石を求めて、日本全国との交流があったことも、出土しているヒスイなどここでは採れないものからわかってきている。
縄文時代の特徴は、「原始、女性は太陽であった」という言葉にあるように、生命の源である女性が大切にされた。「縄文のビーナス」や「仮面の女神」はそれを表している。土器の中にも女性が描かれているものがある。そして、あの華やかな文様を描く時間的なゆとりもあったようだ。稲作文化がはじまる頃になると、文様はなくなり単純化されていく。剰余生産物の交換が始まり、争いも始まっていく。
一瞬、縄文時代の原始共同体の生活の方が幸せではなかったのかと思わせる時間を過ごさせてもらった。
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