リュート奏者ナカガワの「その手はくわなの・・・」

続「スイス音楽留学記バーゼルの風」

ブラタモリ「島原・天草」編に出て来た・・・(2)

2020年03月18日 13時04分26秒 | ウソゆうたらアカンやろ!他【毒入注意反論無用】
天正少年使節が日本を出発したのは1582年2月、日本に戻ってきたのは1590年のことです。そして秀吉に彼らが謁見したのは翌年です。そのときの記録に「3回アンコール」の話が出てくるそうです。

一方ジョスカン・デ・プレはいわゆるフランドル楽派の作曲家で1450年頃生まれ、没年は1521年です。桑山みどり氏の大著「クアトロ・ラガツィ」によりますと、少年使節がヨーロッパに滞在していたのは、1584年8月(リスボン着)から1586年4月(リスボン発)の間の2年足らずです。その間ポルトガル、スペインに滞在し、地中海を渡りイタリアに滞在しています。彼らは8年がかりでヨーロッパに行って戻って来たのですが、彼の地に滞在していた期間は意外に短かったのです。

この短い期間に彼らは楽器に熟達して秀吉の前で演奏したのでしょうか。ここで論点を2つ挙げて議論してみたいと思います。

(1)彼らは楽器をどこで覚えたか?
(2)ジョスカンの曲を聴いたり弾いたりした可能性は?

まず(1)です。

どこかの町に2年近く定住して練習に励んだとしても、リュートなんかの弦楽器は余程才能のある人でない限り大して弾けるようにはならないでしょうし、ましてや各都市を転々と移動していたわけですから、熟達するのは難しいと考えるのが妥当でしょう。もちろん帰りは4年近くかかっているわけですから、その間に船中や寄港先で猛練習したということも考えられますが、彼らは現代の豪華客船に乗っていたわけではありません。恐らくヨーロッパに向かう前には、日本で楽器の手ほどきをうけ既に演奏できるようになっていたと考えるのが自然でしょう。

(つづく)