主に海外の奏者を迎えてのマスタークラスがときどき各地で開催されています。マスタークラスって大層な名前ですけど、実際参加される方の多くはアマチュアで、まぁ実態はワンショット・レッスン会でしょう。
同じレッスンでも特定の信頼できる師匠について継続的に受けるレッスンもあります。
この2つのタイプのレッスン、レッスンをする側からするとかなり内容的には異なります。マスタークラスの場合はあくまでも50分程度で完結しなければならないので、たとえこれでは箸ににも棒にもと思ったとしても、いいところを見つけてとりあげ、時間内にシャンシャンシャンで終了することになります。
師匠からの継続的レッスンはそれとはかなり様相が異なります。師匠としては、何とか実力をつけてやらなければなりません。これは街の教室でのレッスンでも音楽学校でのレッスンでもスタンスは同じです。もし実力が着かない(上達しない)場合、街の教室であれば生徒は離れていくし、音楽学校の場合は留年、強制退学という憂き目にあうこともあります。(実際そういう例を知っています)ですからレッスン自体はシャンシャンシャンではなくいきおい厳し目になります。もちろん街の教室とプロを目指す学生がはいる音楽学校とはレベルが違うので、街の教室においてプロレベルのレッスンをすることはまずないですが。
よくプロと称する演奏家のプロフで、現代楽器では誰それに師事と書いてありますが、古楽器としてのキャリアには誰それのマスタークラス受講としか書いていないものがあります。有名な方のマスタークラスであっても、マスタークラス受講だけでは基本的には上述しましたようにそんなに深く勉強したことにはなりません。
それは考えてみたらわかります。年に1回程度のマスタークラスでのシャンシャンシャンレッスンと音楽学校で毎週師匠から厳しいレッスンを受けるのとどちらが実力がつくかです。中には有名誰それに友好的にマスタークラスのレッスンを受けたことがあるなんてプロフもありますが、それは友好的には違いないでしょう。敵対的にマスタークラスのレッスンをする先生なんていないでしょうから。
某プロはマスタークラスで指導を受けただけで誰それに師事なんて書いています。実はその方がその誰それが教えている音楽学校に在籍した形跡はないのです。「師事する」の定義はさておいても、大したことは勉強していないことは確かです。もっともその方は誰のレッスンも不要なほど天才的な方なのかも知れませんが。
同じレッスンでも特定の信頼できる師匠について継続的に受けるレッスンもあります。
この2つのタイプのレッスン、レッスンをする側からするとかなり内容的には異なります。マスタークラスの場合はあくまでも50分程度で完結しなければならないので、たとえこれでは箸ににも棒にもと思ったとしても、いいところを見つけてとりあげ、時間内にシャンシャンシャンで終了することになります。
師匠からの継続的レッスンはそれとはかなり様相が異なります。師匠としては、何とか実力をつけてやらなければなりません。これは街の教室でのレッスンでも音楽学校でのレッスンでもスタンスは同じです。もし実力が着かない(上達しない)場合、街の教室であれば生徒は離れていくし、音楽学校の場合は留年、強制退学という憂き目にあうこともあります。(実際そういう例を知っています)ですからレッスン自体はシャンシャンシャンではなくいきおい厳し目になります。もちろん街の教室とプロを目指す学生がはいる音楽学校とはレベルが違うので、街の教室においてプロレベルのレッスンをすることはまずないですが。
よくプロと称する演奏家のプロフで、現代楽器では誰それに師事と書いてありますが、古楽器としてのキャリアには誰それのマスタークラス受講としか書いていないものがあります。有名な方のマスタークラスであっても、マスタークラス受講だけでは基本的には上述しましたようにそんなに深く勉強したことにはなりません。
それは考えてみたらわかります。年に1回程度のマスタークラスでのシャンシャンシャンレッスンと音楽学校で毎週師匠から厳しいレッスンを受けるのとどちらが実力がつくかです。中には有名誰それに友好的にマスタークラスのレッスンを受けたことがあるなんてプロフもありますが、それは友好的には違いないでしょう。敵対的にマスタークラスのレッスンをする先生なんていないでしょうから。
某プロはマスタークラスで指導を受けただけで誰それに師事なんて書いています。実はその方がその誰それが教えている音楽学校に在籍した形跡はないのです。「師事する」の定義はさておいても、大したことは勉強していないことは確かです。もっともその方は誰のレッスンも不要なほど天才的な方なのかも知れませんが。
私は、この件では実力を客観的に示したい人間の本音を見るように思えます。
クラシックギターや現代楽器奏者でもそうですが、まずは登竜門のようなコンクールに入賞(3位でも構わない)、世界的な著名演奏家の「マスタークラス受講」、教育目的だけのセッションなのに有名ギタリストとジャム参加等・・・、こうした内容が演奏家としての経歴証明のような役割を果たし、特に日本人は、権威や格式に弱い国民性もあり、客側は、「ほー、大したもんだな」「あの大家に習ったのか」「あのコンクールに入賞したのか」「一緒にジャムったのか」などと、演奏実力以上に評価してしまうものです。
権威づけと格式、それを必要とする理由があると思います。演奏は聴く人が聴けば誤魔化しは利かないでしょうが、一般大衆では、人の評価を色眼鏡で判断してしまうものです。
かつては、日本に欧州の著名リュート奏者を招聘してマスタークラスが行われましたね。それ自体は良いと思いますし、それを糧に自己研鑽を積み勉強されて技術を上げた大先輩も知ってます。一時のマスタークラスでも、それを権威や見栄のためでなく、永続的な一層の向上心を持って研鑽するための手段にするならば、良いのではないかと思いました。
ですが、本来、マスタークラスというのは、長年に渡り相当な研鑽を積んできた方が、大家に診てもらうための機会ではないか、そう思います。
実は、私は人のことなど言えないのです。
今からもう20年以上も経ちますか、、スペインの著名演奏家の「マスタークラス」が開講され、国内のプロも参加する大盛況なものだったんです、それに参加が適ってご教示いただけました。通訳もあり、会話に支障もなく、課題曲をみてもらいました、持ち時間は1時間です。
でも満足でした。もう来日は無いくらいの大家でした。私のようなアマには貴重で思い出に残る経験です。クラシックギターを弾いてた挟間の短い時間でしたが、ま、それはそれで自己満足でしたねえ。直筆の受講証明書と記念写真まで撮っていただき、その時の赤ペン指示の楽譜とともに今でも大切に書棚に保管してあります。
エレキ仲間には、「実はな、俺は本格的にクラギを学んだぜ、巨匠にも習ったこともあるんだぜ!」と言ってた時期もあるんですから。長々と駄文の最後にこれでは先生に怒られそうです・・・。(笑)すみません。
(2)を楽しみに拝見させていただきます。