戦前の日本テニスプレーヤー「佐藤次郎の活躍」

2020年02月22日 | 長野労基のひと口コラム

2020年はオリンピック・パラリンピック。そんな訳で昨年あたりから一段とスポーツ関連の話題が増えましたね。

みんなで盛り上げなくちゃあね。

1964年のオリンピックの後、あの興奮状態から覚めやらなくて、アーこの次日本に来るのは400年後なの、と5歳上の兄に問いました。

だってその頃世界は100国位だったから。

兄曰く「オリンピックが開催できる国はそうはないから」と。

お金がかかるんだよ、と教えてくれました。中学生の私でした。

そんな訳で400年待たずの我が国でのオリンピック・パラリンピックです

 

 2020年2月の長野労基のひと口コラムは「戦前の日本のテニスプレーヤー『佐藤次郎』選手の活躍」です。

以下引用です。

 錦織圭選手が平成26年全米オープンで準優勝したとき、日本人男子の四大大会シングルスでは初、ベスト4は「佐藤次郎選手以来80年ぶり」と報道されました。

翌27年に錦織選手が世界ランキング4位まで上がったときも「佐藤次郎選手の3位に次ぐランキング」と報道されました。

その佐藤選手について紹介します。

 佐藤選手は昭和6年全仏オープンでベスト4に入り、世界ランキング9位。

翌昭和7年には、ウィンブルドンの準々決勝で前年覇者を破り、ベスト4、その他の全豪オープンでもベスト4、昭和8年の全仏とウィンブルドンでは2大大会連続のベスト4まで勝ち上がっています。

 そして、昭和8年のランキングで世界3位まで上り詰め、その活躍を受けて、日本ではその年の10月「テニスファン」という月刊雑誌まで創刊されるようになりました。

佐藤選手は昭和6年から昭和8年の3年間に、四大大会シングルスで32勝挙げており、その記録は錦織選手によって破られましたが、四大大会におけるベスト4以上が5回という記録は、まだ破られていません。(錦織選手は3回)

 なお、佐藤選手は昭和9年26歳の若さで亡くなっています。

佐藤選手の郷里、群馬県渋川市では、偉業を記念して毎年9月に「佐藤次郎杯ソフトテニス大会」が開催されています。

以上引用終わり。

 最後から二行目が切ないですね。

錦織選手の活躍をテレビや新聞で見るたびにすごいすごいと思ってきました。

過去にもすごい方がいらっしゃったのですね。

それではまた。

依田 美恵子  

【 中島木材のホームページは こちら
 ブログランキングに参加しています。お帰りにポチッとしていただけるとうれしいです

にほんブログ村

にほんブログ

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする