長野市松代地区のNPО法人の「夢空間松代のまちと心を育てる会主催の、地形から地域の成り立ちを読み解く街歩きイベント「松代凸凹探訪会」に参加させていただいた。
講師の宮下先生のお人柄なのか、これを主催されている会の皆様の人徳なのか、とてもフレンドリーで居心地がよく和やかな会でした。
先日は古墳群のことをアップしましたが、今回は後半の戦国時代の山城「霞城」跡地巡りです。
近在に山城は4~5つありそうでしたが、霞城は尾根の先端部なのだけど、一見お椀を伏せたような山にありました。
麓から高さ60mの山頂です。
もう急峻。
落ち葉が湿っていて1歩間違えれば、下まで落ちていきそうなところをジグザグに登っていきます。
自分が落ちても、石を落としても、ただでは済まなそう。
いたるところに岸壁が取り巻いていて・・・・・板状になっている石の山でしょうか。
もう空堀もいりません、山自体が要塞そのもの。
たった60mの高さなのに麓の木と頂上の木は違っていました。
クヌギがいっぱい、講師の話を聞きながら、私はせっせと「どんぐり集め」。
プロ友さんがどんぐりで作っていたブローチが気になっていて。
どんぐりそのものではなく、その入れ物、ガクとでもいうのでしょうか。
それをせっせと。
皆さんがいいのがありましたよ、と協力してくれて。
あらあら私何しているのよ、この山城を見たくて来たのではないですか。
頂上からの見晴らしは最高、つまり敵の動きが一望にできる場所なのね。
講師が眼下の川を指さし、かつての川筋を「威の満水」の洪水以後、真田家が変えた話をしてくれました。
長野県ではあまりにも有名な威の満水は1742年の出来事。
その時のことが真田太平記に書かれていたことを思い出しました。
その後も千曲川は洪水を起こすのだけど。
山頂はいくつかのブロックになっていて、それが石積みで形成されているのだけど、その石積みが見事。
講師が、下見に来た時は平茸がいっぱいでねえ、と。
採り時期を逃した平茸を指さして教えてくれました。
おいしい平茸でも、この要塞を再び登る勇気が来年あるかしら(笑)
ここしばらくの間に、山城巡りを3ケ所しました。
山城が作られたのは戦国時代の終わり。そうそう、ちょうど先日の月蝕が前回見えた時代です。
それを思いながら、今回と同じような月蝕が見える322年後の地球はどうなっているのだろう、と思いました。
当然月に人は移り住んでいるでしょうね。
平和であってほしい。
こんな山城が必要でない時代は来たけれど、322年後は核もミサイルも戦争もあってほしくない。
お読みいただきありがとうございました。
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