音楽なら、私は一流プレイヤーの録音を聴くより、二流のナマのほうが好きだ。ナマは聴衆の拍手や微妙な反応がプレイヤーに通じて、演奏に大きな影響を与える。そうした「対話」が好きである。
録音や放送だと、聴衆の反応なぞ関係ない。録音や放送と聴衆が交流することなぞ、ありえない。ナマ演奏での聴衆とプレイヤーの微妙な交流こそが、音楽の醍醐味である。
ナマであることの重要性は、方言のことを考えれば分かる。
TVもラジオも、一日中、標準語で放送を流している。その影響で日本中の人々が標準語を話すようになったかと言うと、そんなことはない。方言は地方地方できちんと生きている。
それは方言がナマだからで、生活に直結しているからである。一方、録音や放送は、地域生活に影響しない生きていない言葉である。
これがナマの持つ大きな力で、方言は生きた言語である。そのコミュニティーを支えているのは方言である。だから、録音や放送がいくら標準語を流し続けても、方言への影響は少ない。
音楽も(二流でも)ナマのほうが良いのは、今その場所で生きている人間がやっている音楽だからで、リアルであることが人間に感銘を与えるのである。
録音や放送だと、聴衆の反応なぞ関係ない。録音や放送と聴衆が交流することなぞ、ありえない。ナマ演奏での聴衆とプレイヤーの微妙な交流こそが、音楽の醍醐味である。
ナマであることの重要性は、方言のことを考えれば分かる。
TVもラジオも、一日中、標準語で放送を流している。その影響で日本中の人々が標準語を話すようになったかと言うと、そんなことはない。方言は地方地方できちんと生きている。
それは方言がナマだからで、生活に直結しているからである。一方、録音や放送は、地域生活に影響しない生きていない言葉である。
これがナマの持つ大きな力で、方言は生きた言語である。そのコミュニティーを支えているのは方言である。だから、録音や放送がいくら標準語を流し続けても、方言への影響は少ない。
音楽も(二流でも)ナマのほうが良いのは、今その場所で生きている人間がやっている音楽だからで、リアルであることが人間に感銘を与えるのである。