懐かしき昭和30年代の話を今回も。
当時は多くの家で「寝食分離」が行われておらず、朝、布団を上げてから同じ部屋でちゃぶ台で朝食を摂った。貧しくてもそれを幸せと思っていた。前に述べたように、当時は浮浪者がいて、「もっと下」があったからである。
「もっと下」のうちの一群の人たちの中には、「売血」で生計を立てている人がいた。そのころ献血の制度はなく、輸血用の血液はもっぱら売血者からの血液に頼っていた。
「売血」は常習的になり、売血者の血液は薄くなる。だから、売血を買うときには、買取側は血液の比重を計った。比重の低い血液は買い取らなかった。売血者の血液は「黄色い血」と呼ばれた。
売血者は比重を上げるために、砂鉄を飲んだ。そのために砂鉄を売る業者まであった。
昭和30年代は良き時代ではあったけれども、こういう底辺があったのである。
「売血」は実入りがよく、200ccで1000円くらいだったと記憶する。売血者は1000円を受け取ると、まず百円札(硬貨ではない)を靴の中に入れた。その日の木賃宿の泊まり賃である。
あとの900円を、食事と呑み代に使った。すっからかんになっても、靴の中の宿代だけは残しておいたわけである。
ささやかな幸せと貧困が同居していたのが昭和30年代である。
「売血」は今でも中国では行われている。
当時は多くの家で「寝食分離」が行われておらず、朝、布団を上げてから同じ部屋でちゃぶ台で朝食を摂った。貧しくてもそれを幸せと思っていた。前に述べたように、当時は浮浪者がいて、「もっと下」があったからである。
「もっと下」のうちの一群の人たちの中には、「売血」で生計を立てている人がいた。そのころ献血の制度はなく、輸血用の血液はもっぱら売血者からの血液に頼っていた。
「売血」は常習的になり、売血者の血液は薄くなる。だから、売血を買うときには、買取側は血液の比重を計った。比重の低い血液は買い取らなかった。売血者の血液は「黄色い血」と呼ばれた。
売血者は比重を上げるために、砂鉄を飲んだ。そのために砂鉄を売る業者まであった。
昭和30年代は良き時代ではあったけれども、こういう底辺があったのである。
「売血」は実入りがよく、200ccで1000円くらいだったと記憶する。売血者は1000円を受け取ると、まず百円札(硬貨ではない)を靴の中に入れた。その日の木賃宿の泊まり賃である。
あとの900円を、食事と呑み代に使った。すっからかんになっても、靴の中の宿代だけは残しておいたわけである。
ささやかな幸せと貧困が同居していたのが昭和30年代である。
「売血」は今でも中国では行われている。