院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

葬らいの方法

2007-04-26 13:46:59 | Weblog
 自分の葬儀は簡素にして欲しい、または葬儀はやらないで欲しいという人が増えているそうだ。

 葬儀は他人がやるものであって、自分がやるものではない。自分の葬儀を簡素にしてほしいと要求することは、自分の死後のことについて注文をつけるという点において、自分の葬儀は盛大にやってほしいと要求することと、本質的に同じである。

 繰り返すが、葬儀は他人(ないし家族)が自らを慰めるためにするものであって、死者のためではない。死者はもういないのだから。

 第三者の目から見て、現代の火葬はいただけない。火葬場へ行くと、なんだかオートメーションのように次々と死体が焼かれていく。あまりにドライである。

 かと言って、薪による荼毘ならよいかというと、森村誠一さんの山岳小説にその描写があるけれども、死体の脂がこぼれて炎がばっと上がったり、肉片の焦げたものの中身がまだ赤かったりして、これもあまり気持ちのよいものではない。

 理想の葬らい方法はなんだろうか?

 私はエジプトのミイラが最も理想的な死体の処理法だと思う。でも、相当に手間がかかっている。即身仏のミイラもあるが、断食してがりがりに痩せてからでないとミイラ化しない。だから、何もせずにミイラになるというのは、かなり難しい。(ちなみにミイラはポルトガル語である)。

 次に理想的なのが、従来からの埋葬である。これは穴を掘る手間だけだし、自然な死体の処理法でもあると思う。

 意外に理にかなっているのが鳥葬である。これは現在でもネパールで行われている。鳥葬を執り行えるのは村で選ばれた素行のよい青年たちだけである。青年たちは死体を鳥が食べやすいように頭蓋骨を斧で割ったりする。

 死体を再び自然の連鎖の中に戻すという点で、鳥葬は捨てたものではない。

 献体という手もある。医学生が人体を知るために3ヶ月ほどかけて詳細に解剖を行う。医学部での解剖実習は医者になる通過儀礼のようなもので、私は解剖実習が始まってから、しばらくの間、肉が食べられなかった。解剖実習がイヤで医者になるのを諦めた友人もいる。

 でも、献体も最終的には火葬にされる。

 水葬は衛生面で問題があるし、風葬もゴミを捨てるみたいな感じである。

 結局、最善の葬らい方法なんてないのだ。初めにも言ったとおり、私は自分の葬儀に注文をつける気はない。だから、葬らい方法にも注文をつけない。