もう10年以上も昔、名古屋の俳句結社「牡丹」の句会に、左手の肘から先がない娘さんが来ていた。
主宰の浅野右橘先生は、その娘さんの俳句をよく取り上げた。とびきり上手い俳句でもなかったから、これは浅野先生の配慮だったのだろう。
浅野先生が亡くなってから、その娘さんは句会に来なくなった。俳誌「牡丹」への投句もなくなった。
その後の彼女の消息は知らない。
浅野先生の命日は、季語「茶の花忌」としてホトトギスに残った。弱者にやさしい先生だった。
主宰の浅野右橘先生は、その娘さんの俳句をよく取り上げた。とびきり上手い俳句でもなかったから、これは浅野先生の配慮だったのだろう。
浅野先生が亡くなってから、その娘さんは句会に来なくなった。俳誌「牡丹」への投句もなくなった。
その後の彼女の消息は知らない。
浅野先生の命日は、季語「茶の花忌」としてホトトギスに残った。弱者にやさしい先生だった。