院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

孤独死(1)

2012-06-29 00:01:28 | 文化
 東京在住の父ががんの末期で、もうじき死にそうなころ、私は名古屋に住んでいた。

 ある会議中に「父キトク」の連絡が入り、私は会議場からTシャツのままで名古屋駅へ行った。ちょうど新幹線がホームに入ってきて、それに飛び乗った。

 私が病院に付いたときには、父は意識がなかった。その30分後に息を引き取った。つまり、私は「親の死に目」に間に合ったことになる。

 役者は(公演中に中座するわけにいかないから)親の死に目に会えない因果な商売だという。 だが「親の死に目」に間に合うというのは、そんなに重要なことなのだろうかとも思う。

 死んだ後の采配は長男が振るわなくてはならない。病院を辞し、葬儀屋を手配して、めぼしい人に連絡するということを、数時間でやらなくてはならない。東京では通夜には酒食のもてなしをするから、その注文だけでも大変だった。

 だが、これらは父が息のあるうちに枕元に駆けつけることとは、何の関係もない。

 「親の死に目に会う」という風習が、いつからどういう根拠で出てきたのか、私は知らない。死に目に家族が付いていないと「孤独死」みたいに見えるからだろうか?