(吉本隆明晩年のポートレート。TVランキングのHPより引用。)
人間同士は心を通じさせることができます。言葉で通じ合うのではなくて、言葉に先立ってなぜか通じ合えます。
この「先天的に通じ合える場」を吉本は「共同幻想」と呼んだというのが私の解釈です。あとから言語ができて通じ合える内容が詳細かつ複雑になりましたが、あらかじめ「通じ合える場」がなくては言語は成立しませんでした。
自然言語は数学の言語ほどには厳密でなく、たくさんの「含み」(意味のハロ・暈)をもっています。「含み」を利用した言語の創造的使用が文芸です。言語にはあいまいさがあるがゆえに、言葉の美的使用が可能となったとも言えます。(この「あいまいさ」はソシュールの言う「言語の恣意性」とはとりあえず無関係です。)
そのため、「先天的に通じあえる場」(共同幻想)における「言語の美的使用」について、吉本は語ることになりました。
かつて哲学や精神医学の領域では「人はなぜ通じ合えるのか?」が問題となり、「共感覚」とか「共通感覚」という概念が作られていました。しかし、多くを論じたのは吉本が一番でしょう。
吉本は柳田國男の『遠野物語』を引用して、「その村の共同幻想」という言い方をしています。が、それだと”人類に普遍的な”共同幻想という観念が、一地方のローカル文化に矮小化される恐れがあり、共同幻想という概念をかえって分かりにくくしています。(吉本自身が混乱しているのかもしれません。)
ともあれ『共同幻想論』は学生運動華やかなりし時代に、「学生活動家」たちに熱狂的に読まれました。しかしながら、本書の中身は政治運動とはまったく関係がないので、私は不思議に思ったものでした。もっとも私の周囲にいた「学生活動家」たちに、ちゃんと理解して読んでいる人はいませんでしたけれども・・。
吉本を読むのが当時のファションだったのでしょう。「学生活動家」であることもまたファッションでした。