院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

お寺の経済

2011-10-16 04:37:40 | Weblog
 当家が檀家になっている末寺は、儲かっているのかどうか分からない。檀家が200軒程度あるとして、檀家一軒、年に5万円納入すると1000万円。それに葬式のお経料、戒名代などを入れると、お寺は非課税だから、悪い実入りではない。

 当家の旦那寺は東京の文京区にある。界隈にはお寺が多い。東京駅まで歩いて15分くらいだ。随分、都心にあると思われるかもしれないが、江戸時代の江戸は、その界隈くらいまでで、新宿からしてすでに甲州街道の宿場町だった。そのあたりは、もう田舎といってよかった。

 私の妹(小学校6年生)が病死したときにお経をあげてくれたのは、先代の住職だった。先代も亡くなり、父親の葬儀のときにお経をあげたのは、今の住職だった。妹の葬儀のときは、「見習い」のように先代に付いていた先代の息子さんだ。

 父親の葬儀のとき、私はその住職にお経料を聞いた。しかし、「あくまでもお布施ですから、いただいてもいただかなくても」と決して値段を言わなかった。

 ただし、戒名料だけは「宗派内で30万円と決まっています」と答えてくれた。松竹梅でいうと、松が30万円である。院号居士と言って、○○院○○○居士というのが、一番上等な戒名である。当家は歴代、院号居士なのでそうしてもらった。何かと物要りの葬儀に、30万円は痛かった。

 住職の話によると、自分たちの宗派は浄土真宗であり、戒名ではなく法名と呼ぶという。法名は実は生前に付けておくもので、死んでからあたふたと付けるものではない。本山と協議して決めるのだそうだ。

 そこで私は、葬儀で息子たちが困らないように、生前に法名を付けてもらった。そして30万円支払った。最近、浄土真宗の中で、理由は知らないが「居士」は止めようということになったそうで。私の法名は○○院○○○だけである。

 戒名について、値段によってランクがあるのは、おかしいとか、ちょろっと考えるだけで30万円は高いなぞといった議論があるけれども、要するにケチなのである。イヤなら自分で戒名を付けるか、いっそなしにしてしまえばよい。

 私は本当は無宗教だが、親戚と争いたくないから戒名(法名)を付けてもらっただけであって、深い宗教的な信念があるわけではない。

 それに浄土真宗の法名代は禅宗などと較べると決して高くない。禅宗では100万円だとも聞く。

 最後になったが、檀家という言葉は鎌倉時代からあった。だが、江戸幕府の宗教政策によって檀家制度が確立された。寺が強い権限をもつようになり、後の廃仏毀釈を招いた。檀家制度は「葬式仏教」と揶揄されるように、宗教的には退廃した。

 しかし私には、このような論を展開して戒名料をケチるのは趣味に合わない。めんどうくさいのである。慣例があるなら、それに乗っかればよい。なにも考えずに、お金だけで済んでしまうから、精神衛生上よいことこの上ない。もともと宗教とは、精神衛生のために存在するのではなかったか?

内館牧子さんが触れなかった「気になる言葉遣い」(2)

2011-10-15 05:45:33 | Weblog
 内舘牧子さんが週刊朝日で触れなかった、もう一つの「気になる言葉遣い」は、「・・してもいいですか?」である。

 受付嬢が客に何かを書いてもらいたいとき「この用紙に書いてもらってもいいですか?」と言う。バカ丁寧である。「この用紙にお書きください」で十分である。どうせバカ丁寧にするなら「書いてもらっても」ではなくて「書いていただいても」だろう。なんだか不徹底なのである。

 他人に何かを訊ねるとき「訊いてもいいですか?」で始まる。「どうぞ」と言うと、初めて質問が始まる。元は「ちょっと、お訊きしたいのですが・・」程度だった。それでも十分すぎるほどである。

 「お名前をお訊きしてもいいですか?」という言い方もある。正しくは「お名前を教えてください」である。内館さんも指摘しているように、最近では「お名前、頂戴できますか?」という変な言い方もある。

 要するに全部、疑問形になっているのである。

 「あの本をお借りしてもいいですか?」は、まあセーフだろうか?やはり丁寧語は難しいと言えば難しい。

 これらは若い女性の言葉遣いに多い。若い女性が、しとやかになった証しだろうか?でも丁寧にも、バカが付くのは考えものである。

内舘牧子さんが触れなかった「気になる言葉遣い」(1)

2011-10-14 04:10:18 | Weblog
 いつぞや述べたように、私は脚本家の内舘牧子さんのファンである。内館さんの脚本のファンではない。私は内館さんのドラマをたぶん見ていない。エッセイストとしての内舘さんのファンなのである。

 先週号までの週刊朝日に、内舘さんは「気になる言葉遣い」について4,5週連続で書いていた。例えば「・・させて頂く」などはバカ丁寧で苦になるとあった。「・・させて頂く」は私も時々使用するので反省した。

 ほかにも、なるほどという例が網羅されていて、とても面白かった。内館さんの文章は内容が的を射ているばかりでなく、読みやすくて上手い文章だ。

 その内舘さんが取り落としている「気になる言葉遣い」がある。それは「大丈夫ですか?」、「大丈夫です」である。

 例えばウエイトレスが「お水は足りていますか?足りなければ、お注ぎしましょうか?」というべきところを、「お水、大丈夫ですか?」で済ませてしまうことだ。

 タクシーの窓が開いていて、風が寒くないかと運転手が客に問うとき、「窓、大丈夫ですか?」となる。

 言葉遣いは厳しく教育されているはずのスチュワーデスに、ワインのおかわりはどうかと問われたとき、なんと「ワインのおかわり、大丈夫ですか?」と言われた。こちらも「大丈夫です」と応えてしまった。「もう要りません」と応じるべきだった。

 いまや「大丈夫」の氾濫である。意識して観察してみるとよいと思う。必ず一日に一回は耳にするはずである。

 実は内館さんが週刊朝日で取り上げなかった「気になる言葉遣い」がもう一つあるのだが、それは次回にでも。

放射性物質の「除染」への疑問

2011-10-13 00:48:06 | Weblog
 少し前、鳥インフルエンザが流行ったとき、鶏舎を丸ごと「消毒」するということが行われ、繰り返し報道された。この時、私は「おかしいな」と思った。医療関係者には「おかしい」と思った人が多かったのではあるまいか?

 どこが、おかしいかというと、ウイルスは消毒液では殺せないからである。消毒液はバクテリアを殺す物質である。しかし、テレビでは鶏舎に液体を噴霧する映像をしきりと流して、「消毒」と言っていた。

 この点をウイルスに詳しい先輩医師に聞いてみた。そうしたら先輩医師は「あれは消毒をしているのではなくて、希釈をしているのではないの?」と答えた。でも、報道では「希釈」という用語は一度も出てこなかった。

 確かに「希釈」は病原体の効力を弱める。それはバクテリアもウイルスも同じである。だとすると、あの「液体」は水だということになる。

 逆性せっけんだという医師もあった。だが彼も、逆性せっけんがウイルスを殺すかどうかについては知らなかった。私も知らない。もしかすると、あのときの「液体」は本当に消毒液だったのではないか?だとしたら、ものすごい無駄遣いだ。

 やがて鶏舎の「消毒」は、石灰の粉に変わった。これもウイルスに効力があるのかどうか、未だに私は知らないが、消毒液よりは経済的である。

 そこで、このたびの放射性物質の「除染」だが、高圧水流で屋根や壁を洗う映像が流されている。

 再び私が不思議に思うのは、「屋根や壁を洗浄して、その排水はどこへいくのか?」ということだ。屋根や壁からは放射性物質は減るかもしれない。でも排水が側溝へ流れるだろう。今度は側溝が汚染されることになりはしないか?

 ばい菌と違って、放射性物質を「殺す」ことはできない。だから、洗浄してできることは、汚染の場所を「移動」させるということだけである。

 ここでもまた「希釈」という概念が出てくるのだろうか?地域全体の「希釈」なんて洪水でも起こさない限りできるのだろうか?「希釈」するのに高圧洗浄機が必要なのだろうか?ホースで大量の水を撒くだけではダメなのだろうか?

 科学的に考えると、「除染」という用語または行為には胡散臭さが付きまとっている。

 私が昔、行政にいたころ、「科学的な真実が重要なのではない。住民が安心したような気になることが重要なのだ」と教わったけれども、今回の「除染」も同じ思想によるものなのだろうか?

安めぐみさんの結婚

2011-10-12 06:16:19 | Weblog
 江戸時代、歌舞伎役者を初めとする芸人は、最下層に置かれていた。歌舞伎役者たちは浅草の一角に囲い込まれていた。彼らを管理していたのは、当時の頭だった。だから、庶民は歌舞伎を楽しんでも、役者を自分たちと同列とは見なさなかった。

 なぜ、役者や芸人が蔑まれたかというと、彼らは目に見えるもの(農産物や工業製品など)を何も生産しないからである。これは幕府の大きな思い違いで、実はエンターテインメントは心の糧として実際の食糧に匹敵するほど重要なものである。

 この誤りは「士農工商」という序列に如実に表れている。「商」も目に見えるものを生産しないから、下に置かれた。

 芸人をこれよりもさらに下に見る風潮は、つい最近まであった。(役者や芸人は)「川原乞食だ」という言葉は、私も実際に耳にしたことがある。

 歌舞伎役者が一目置かれるようになったのは、明治になってからである。西洋にはオペラがある。我が国にも西洋に伍していけるような華やかな出し物はないかと、明治政府が捜して見つけたのが歌舞伎である。明治政府は歌舞伎を保護した。いま例えば幸四郎や海老蔵が認められているのは、元をただせば明治政府の保護によるものだ。

 芸人の東MAXという人が、安めぐみさんを、めとるという。私は東MAXという芸人を知らなかったけれども、安めぐみさんとの結婚話で知ることとなった。

 安めぐみさんと言えば、屈指の美人タレントである。私はNHKの科学解説番組(題名は忘れた)で、ほんとうに美しい人だなぁ、とほれぼれしながら見ていた。聞き手としての安さんは、とても上手に役割をこなしていた。

 芸人があんな美女を射とめるなんて、ちょっと前には考えられなかったことだ。しかも、一回りも年下である。

 時代はもう決定的に変わってしまったのだ。私ごときが東某に嫉妬しても、もはや石器時代の遺物のような話だろう。

「経済学部」と「政治経済学部」

2011-10-11 07:11:33 | Weblog
 早稲田大学に政治経済学部という難関学部がある。ほかの大学には経済学部はあるけれども、政治経済学部というのはあまり聞かない。

 どうして政治経済学部なのか、恥ずかしいことに私は40歳ころまで分からなかった。多くの人はすでに知っていることだろうが、政治と経済は本当は不可分なのだ。なるほど経済学は純粋な理論的な学問で、つい一昨日もノーベル経済学賞が発表された。しかし、ノーベル政治学賞というのはない。

 だが、実態の経済は政治に大きく影響される。例えばユーロ問題。これは経済政策を統一する前に通貨だけを統合したので、今回のユーロ危機を招来したと言う。通貨統合は経済問題ではなく政治的な問題である。だからかどうか、永世中立国スイスはユーロに加盟していない。

 TPP問題もそうだ。日本がTPPに加盟すると農業が壊滅的な打撃をこうむると、農業団体は反対している。だが加盟しないと、日本が取り残されるという危機感を一部の経済人はもっているようだ。ここでも政治と経済は不可分の関係にある。(科学的に、すなわち経済学的に決まるものなら、賛成も反対もないはずだ。)

 だから学問としての経済学を勉強するよりも、現実に即して、政治経済を同時に学ぶのが実践的なような気がする。

 早稲田が政治経済学部をもち、慶応が経済学部しかもっていないのは、早稲田が現実的で、慶応が理論的な印象を受ける。

 でも本当のところは、名称がどちらであっても、両者は大して変わらないのかもしれないが・・。

AKB48は、いつまでもつか?

2011-10-10 08:23:44 | Weblog
 AKB48の人気が高い。今が絶頂で、今年の紅白歌合戦に出て、その後は下り坂の一途だと私は予想している。

 「総選挙」で投票権を得るために何百万円もCDを買ったり、「じゃんけん大会」に何千人も来て熱狂したり、ということはいつまでも続くものではない。

 「じゃんけん大会」なんて幼稚園のそれみたいで、ファンでなければ面白くもなんともない。そのファンとても、秋葉原時代からのコアなファンを除いては、すぐに飽きて、次に出てくる新しいタレントに興味を移すだろう。

 AKB48の生みの親である秋元康さんも、もう次を考えているだろう。それにしても秋元さんは才人である。「おにゃんこクラブ」だったか「モーニング娘。」だったかを売り出した。でも、いずれのグループももはやソロでもやっていけるような娘以外は消えてしまった。

 國生さゆりさんなんて、おにゃんこクラブ時代は、もっともスキャンダラスなタレントだった。今生き残っていること自体が不思議で、彼女の「生き残り方」は「あの人は今?」的である。

 AKB48の前田敦子さんは、「総選挙」で一番をとったけれども、水際立った美人ではなく、歌も踊りも学芸会並みだから、今が花で先は見えている。

 AKB48が人気なのと、K-POPが人気なのとは根本的に違うところがある。K-POPのタレントが人気なのは、それだけ鍛えられているからである。小さいころから、歌や踊りのレッスンをし、何よりも日本語を叩き込まれる。それでも多くは生き残れない。競争に打ち勝って、容姿や芸で格段に優れた者だけが出てくる。我が国のジャリタレントとはわけが違う。

 卓球の福原愛さんが中国で人気なのは、中国語ペラペラだからである。

 40年前は「可愛いベイビー、ハイハイ♪」とコニー・フランシス(もはや知らない人が多いだろうなぁ)はカタコトの日本語で歌うだけでヒットしたけれども、今では外国人タレントは日本語がペラペラでなくてはならない。

 以上のようなわけで、おにゃんこクラブ、モーニング娘。が衰退していったのと同じように、AKB48が下り坂の局面に入ることは火を見るより明らかである。

 来年の紅白歌合戦のときには、多分もういない。

赤い羽根批判・今年で5回目

2011-10-09 05:51:30 | Weblog
    うらぶれし日も赤い羽根かく附けし  山彦

 この句にあるように「赤い羽根」は、秋の季語である。季語になるほど、生活に密着しているということだ。(「赤い羽根」の始まりは昭和22年。)

 句意は、うらぶれた日でも慈善の矜持だけは忘れない、ということだろう。だから、ここでの「赤い羽根」は、ポジティブな意味をもっている。

 しかしながら、私はこのブログで毎年、赤い羽根を批判してきた。今年で5回目になる。批判の論点を整理すると次のようになる。

(1)毎年、町内会で半強制的に赤い羽根を「購入」させられる。町内会に文句を言うのは大人気ないから、私は町内の慣習に従っている。だが、許しているわけではない。

(2)町内で「購入」しているのに、街に出ると高校生たちが声を嗄らして、赤い羽根を「売って」いる。もう一回、「買わない」といけないような気持ちにさせられる。

(3)発表されているのかもしれないが、赤い羽根でいくら「儲かった」か、報告を見たことがない。たぶん莫大な金額だろう。

(4)その莫大な金額で何が行われたのかを私は知らない。少なくとも、普通の庶民が理解できる、または目に付くようには発表されていない。

(5)莫大な金額が動くから、当然「専従職員」がいるのだろう。彼らの人数がどれくらいで、給料はどれくらいか、知らされていない。給料には募金の一部がかすめ取られているのだろう。

 ここで「購入」、「売る」、「買う」なぞとカッコ付きで書いたのは、別に羽根が売買されているわけではないが、そう書いたほうが分かりやすいからに過ぎない。

 24時間テレビ「愛は地球を救う」というチャリティー番組が、もう30年以上行われている。こちらのほうは、いくら募金が集まったか、何に使われたかが分かりやすくテレビで紹介される。専従職員もいない。しいて言えば、テレビ局の職員が専従職員ということになろうか?

 こうしたことを考えたこともない高校生を街頭に立たせ、声を張り上げさせるのは罪である。

 だから、議員たちが一様に赤い羽根を付けているのが欺瞞に見える。

    赤い羽根だれが得してゐるのやら  管理人

米長邦雄永世棋聖、コンピュータの挑戦を受諾

2011-10-08 00:15:16 | Weblog
2011-04-08 の本欄の記事で、米長邦雄将棋連盟会長がコンピュータとプロ棋士の対戦を禁止していることを批判した。

 そうしたら、今度は米長永世棋聖自身がコンピュータからの挑戦状を受けて立った。みずから範を示して、将棋界が混乱するのを防ごうという考えだろう。立派である。対戦は2012年の1月だという。

 コンピュータとの対戦は、すでに2010年に清水市代女流王将が行って、負けている。(女流棋士は普通の棋士より角一枚くらい弱い。)

 でも、米長会長がコンピュータに負けたらどうなるのだろう。このコンピュータ棋戦は「電王戦」と名づけられ、コンピュータが勝つごとに、次々と低段者から高段者と戦っていくらしい。

 あんまりプロ棋士がコンピュータに負けると、プロ棋士の存在価値がなくなる。この棋戦は、将棋界の将来を決める特別な棋戦であると言ってよい。

 コンピュータ将棋はあなどれない。以前に書いたように、コンピュータの棋力には「奨励会」を卒業できずにプロになれなかった強豪たちの怨念がこもっているからである。

 彼らは積極的に将棋プログラムの改良に協力している。これでプロ棋士側が負ければ、チェスやオセロのように、プロは存在しにくくなる。プロ棋士の「おまんま」がかかった棋戦なのである。

 今回、米長永世棋聖はコンピュータに負けると、今から予想しておこう。

 この「電王戦」(米長氏の命名)は、これまでのタイトル戦より、私にとってはずっと興味のある棋戦である。

 (碁のほうは、コンピュータに適してなく、まだまだ人間のほうが強い。)

ポルトガル管見記(大学篇)

2011-10-07 00:38:07 | Weblog
 コインブラ大学というのを見物した。国立大学で日本の東大に当たるというが、設立が1290年で東大よりずっと古い。学生は2万2千人もいるという。大学を中心としてひとつの街になっている。

 私たちが見物したときには、新学期の始まりで学生は独特の黒いマントを着ていた。日本の旧制高校生もこのようなマントを着ていた。コインブラ大学も旧制高校も昔は常時マントを着ていたようだが、今ではコインブラ大学では何か特別の行事のときにしか着ないらしい。

 日本の大学には現在、制服というものがない。もし大学生が、コインブラ大学のようにマントを着て歩いたら、時代錯誤もはなはだしく、かえって滑稽だろう。

 制服はときに身分を表す。コインブラ大学の学生はマントを着て、そこの学生であることを誇らしく思っているのだろう。

 日本は逆で、制服がないほうを誇らしく思っている。制服がない高校は一流高校ばかりである。頭髪やファッションにも制限のない高校もある。一流中の一流となると、そうなる。だから、信じられないかもしれないが、中には茶髪ピアスで登校する超一流高校生もいる。学校側は別にとがめない。

 大学では、日本では当然のことながら制服がない。(一部に、ある大学もある。でも三流である。)教授連は当然、制服なぞないと思っていたら、実はあるのである。

 今年の10月、東大の大学院の入学式の報道をテレビで見て驚いた。学長を初め、教授連が法服のような制服を着ているのだ。大学院生のかなりの数が外国人だから、そうしたのだろうか?式は英語で執り行われた。学生は平服だった。

 一方、名古屋大学の留学生入学式(学部生の入学式であり、大学院ではない)では、教授連は平服だった。式はやはり英語だった。

 制服が出てきたり消えたり、なかなか忙しい。

 私は仕事で白衣は着ていないが、救急などでは白衣は必要だと思う。あわただしい現場で、誰が医者で誰が患者かすぐに分からないようでは、かえって効率が悪いからである。

ポルトガル管見記(風見鶏篇)

2011-10-06 07:07:41 | Weblog
 30年前ポルトガル旅行をした友人は、どこの民家にも風見鶏があり、お土産品に風見鶏のデザインが多かったと言っていた。

 今回のポルトガル旅行では、民家に一回も風見鶏を見かけなかった。都市はマンションばかりで、風見鶏を付けるスペースがない。地方の一戸建てにも風見鶏は付いていなかった。

 この30年で建築も一世代変わってしまったのだろう。古い家や邸宅には風見鶏がまだあると聞いたが、郊外には新築ばかりが建っていた。そして、風見鶏は付いていなかった。

 お土産品に風見鶏は確かに多かった。焼き物の風見鶏を方々で見かけた。ハンカチやペンダントなどにも風見鶏が印刷されていた。

 友人は風見鶏の置物を買ってきて、あとから「どうしてこんなもの買ってきちゃったんだろう」と後悔したそうだ。その置物は彼の家にまだあって、彼はそれを見るたびにそう思うのだという。

 神戸が風見鶏をシンボルにしている。異人館には風見鶏の館というのがある。風見鶏には異国情緒があるからだろう。神戸に住んでいた異人は家に風見鶏を付けていたのだろうか?だとすると異人はポルトガル人だったのだろうか?

 そもそも、風見鶏はポルトガルが発祥地なのか私は知らない。

 友人が後悔している話を聞いていたので、私は妻に風見鶏関係だけは買わないように言っておいた。でも妻は風見鶏が印刷された鍋つかみを買ってきた。

 同じ鍋つかみが土産物屋によって値段が違う。妻は別の店のほうが安かったと、少し不満気だった。

ポルトガル管見記(芸能篇)

2011-10-05 07:31:01 | Weblog
 前回登場した30年前にポルトガル旅行をした友人が言っていた。リスボンでは、ファドという「死にそうな」歌を聴かせられるぞ、と。

 ファドとはポルトガルの民族歌謡で、フランスでのシャンソンのような存在である。日本では暗い歌と理解されている。

 カーザ・ド・ファド(ファドを聴かせるレストラン、ライブハウス)というのがあり、私も連れて行かれた。しかし、暗くもないし、「死にそう」でもないのである。

 クラシックギターとポルトガルギター2本で伴奏される。私のときは女性が2人出演した。だが、ファドらしき歌は2曲くらいしか聴かれなかった。あとは、ファドとは関係のない民族舞踊(フォークダンス)や、明るい音楽寸劇だった。

 フォークダンスは、バスで田舎を通るとき、その村の祭で実際に踊られているのを見た。それと同じダンスをカーザ・ド・ファドでやっていた。踊っている本人は楽しいかもしれないが、見ているほうは、さほどでなかった。

 ファドレストランで明るいフォークダンスは場違いな感じがしたが、ファドばかり延々と聴かされても飽きてしまうだろうなと思った。ファドだけでは客を呼べないから、ファドレストランもいろいろ考えるのだろう。30年前とは明らかに変わってしまったようだ。

 ファドについては、日本語のホームページまである。日本にも愛好者がいるようだ。以下はそのHPからの引用である。

「Fado には叶わぬ愛、宿命の苦しみなど、限りないメランコリーを歌うものから、軽快な波止場の噂話やお祭りの歌など明るい即興歌謡の面影が残るものまで、幅広い多様性があるのである。中でも特に「我が町リスボア」を歌った歌詞は多く、それらは、我らの町、そこに住む人々の誇りと喜び、人々への愛情に満ちている。 Casa do Fado でこれら「リスボア」の歌が歌われるとき、期せずして観客達の大合唱が起こり、いかに彼らが「我が町リスボア」に愛着と誇りを持っているかを思い知らされる。
Fado は「暗く、悲しく、寂しい、絶望的なもの」ではなく、どんなに厳しいときであってもしたたかに生き抜く庶民の、エネルギーに満ちた力強い歌であるということを、あらためて認識して欲しいと考える。」

 どうもファドに対する認識は、日本では別様に伝わっているようだ。

 ファドレストランでの料理は、ご他聞に漏れずおいしくなかった。

ポルトガル管見記(物価篇)

2011-10-04 07:02:45 | Weblog
 30年前にポルトガルを旅行した友人が言っていた。物価が安い。タクシーなんて、かなり乗っても50円くらいだ、と。

 今回はそんなに安くなかった。タクシーはそこそこ乗れば、千円から2千円。日本より少し安いかな?という感じ。

 衣服は、スーツケースが届かない穴埋めとして、パンツやランニングシャツ、ポロシャツ各2枚、それにジャンパーの薄いので、しめて58ユーロ。6千円くらいだった。日本では安売り店なら、もっと安いだろう。

 ポルトガルワインの並みなのが1本千円から2千円。これは物価がどうのと言うより産地だから安いのだろう。ポートワインはもっと高く3千円くらいだ。私も30年前にパリに行ったことがあるが、当時ワイン1本わずか300円で、とてもおいしかった覚えがある。(日本ではワインはまだ高級品だった。現地でのあまりの安さに驚いた。)

 30年と言えば一世代交代している。昔は安かったと言っても、それは昔のことで、今は通用しないだろう。30年前は日本でも安かった。

 ただ、ポルトガルの大学卒初任給は9万円くらいだそうである。日本の半分以下だ。これだと、物価が安くないとやってゆけないと思うが、スーパーマーケットでの食品の値段は、日本の半分以下とは思えなかった。庶民は苦しいだろう。

 ランチが千円から2千円。日本の定食屋のランチが、安いところなら600円くらいであるから、さほど安くない。料理があまりおいしくないから、ポルトガルのランチには割高感がある。

 クリントン元米大統領が現役時代に泊まったというホテルに泊まったが、ツアー代金に含まれていたために、そのホテルが1泊いくらかは具体的には分からなかった。

 全体として、物価は日本より1~2割安いように思った。

中日新聞、品種改良悪玉論を展開か?

2011-10-03 06:52:24 | Weblog
 これからもポルトガルの話が続くので、今日は一服して別の話題にしてみよう。

 2011年9月30日の中日新聞愛知県版の投書欄に71歳の男性が次のような投書を寄せていた。

 「最近はタネ無しブドウが多い。食べるに楽だが、いかにも人工的な感じがする。ブドウはやはりタネを吐き出しながら食べたほうが風情がある」

 細かい表現は違うが、要旨はこのようなものだった。私には素人の投書者を責めるつもりはない。投書者は常に善意であることも分かっている。責められるべきは投書を掲載した中日新聞である。新聞社はプロであるから、ちょっと責めさせてもらう。

 この投書のどこがいけないのか、気付かれない読者も多かろう。いけないのは、品種改良を否定している点である。次のように言い換えれば分かるだろう。

 「最近は豚肉が多い。食べるにおいしいが、いかにも人工的な感じがする。元のイノシシのほうが臭みや歯ごたえがあって風情がある」

 以上のような意見に書き換えれば、この投書が無理スジであることはすぐに分かる。

 実は品種改良は、農耕が始まる1万5千年前の新石器時代から行われていたのである。野生で普通に採れる植物を、わざわざ畑で栽培する必要はない。

 新石器時代の農耕遺跡の穀物遺物は、すでに4倍体は当たり前で、8倍体や12倍体もあるという。品種改良があって、初めて農耕が可能になったわけだ。

 カイコも同断である。今や天然のカイコなんてない。必ず人間が手を加えなければ、カイコは種の保存ができないほどに「改良」されてしまっている。

 アワ、ヒエ、ムギ、イネも、それらが栽培され始めたときには、もちろん改良済みである。

 タネのあるブドウも、それ自体が品種改良の結果、甘くなったものである。そのようなブドウにタネがあるかないかなぞ、問題にするに値しない。

 あるいは、品種改良イコール人工的イコール良くない、という誤った議論を導き出そうとしているかのようにも見える。

 新聞社の人間と言えば、教養人として誰しもが認めるところである。その新聞社が、このような投書を採用してはいけない。

 新聞社は「庶民感覚の一意見を紹介しただけ」と逃げるかもしれない。ファッションやマナーのことなら、そうやって逃げてもよい。しかし、ここで取り上げている例は食料の問題である。情緒的な品種改良悪玉論を助長するような(新聞社の)姿勢を見過ごすことはできない。

ポルトガル管見記(携帯電話篇)

2011-10-02 06:55:31 | Weblog
 おそらく現地の中継点は使用できないだろうと思っていたが、夫婦ともども携帯電話を持って行った。場合によって日本に電話をかける必要が生じて、国際電話をかけなくてはならないかもしれないから、国際電話ができるケイタイである。

 幸いにして、そのような場面はなかった。ただ、夫婦どうし電話をかけなくてはならないことはあった。そうした場合、たとえ100メートルしか離れていなくても、国際電話で通話するしかなかった。金銭的に非常にもったいない。

 古い城をホテルに改造した部屋に泊まっていた夜中、妻のケイタイが鳴った。なんと日本からの電話で、それも私たちが海外旅行をしているとは知らない人からだった。

 内容は、「台風が来ているから、ナントカの会は中止にします」という連絡だった。日本では昼間なのだ。妻が「今、ポルトガルにいます」と応じたら、相手の人は驚いていた。電話の相手は何も知らずに、いつもどおりに妻にケイタイをかけただけなのである。

 気軽にケイタイをかけたら、ポルトガルと繋がってしまったということである。相手ばかりではなく、私も驚いた。これほど簡単に国際電話ができてしまうとは!

 こんなことは、つい3年くらい前には考えられなかった。通信の分野はすさまじい速さで進歩している。

 30年前、ある病院に勤めていたころ、院長(故人)には大変世話になった。その院長が言うに、「リゾートで海外に行くとき、飛行機が離陸を始めると、スーッと体から力が抜けていく。それが心地よい」そうだ。なぜかと言うと、「もう、絶対に呼び出しの電話がかかってこないから」だという。院長というのは激務なのだなぁ、とつくづく思った。

 ところが今の通信事情の進歩である。もう海外に行っても「絶対に電話がかかってこない」なぞと言っていられなくなった。これを「進歩」と言ってよいのだろうか?