院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

失敗した香港学生デモ

2014-10-17 05:14:39 | 社会

(10月10日の香港・金鐘での集会。ウィキペディア、「香港反政府デモ(2014)」より引用。)

 1970年ころ私は大学生で、学園紛争が盛んでした。

 中心的に活動していた学生の多くは、エリート意識と自己顕示欲のかたまりに私には見えました。事実、東大京大を初めとする有名校ほど紛争が激しく、名の知れない大学ではほとんど紛争は起こりませんでした。

 大学に行ったアタマがよい奴が理論武装して暴れ、アタマが悪い奴は理論武装しないで暴走族をやっていたように思います。学園紛争と暴走族は根っこが同じだったのですね。

 日本の学生はなまぬるい考えで紛争を起こしていたから、田中角栄の「大学立法」という5年の時限立法ですぐに潰れました。卒業後の「活動家」の振る舞いからも、紛争が「お遊び」だったことがバレてしまいました。

 そこで、このたびの「香港学生デモ」ですが、学園紛争時代の日本の学生デモとどこが違うのか注目していましたが、残念ながら同じでした。

 決め手は国慶節にありました。国慶節は連休になり、海外旅行をする人たちも多いのです。学生の読みでは、連休になれば勤め人もデモに参加できるからデモ隊の数は何倍にも膨れ上がるはずでした。

 ところがデモ隊は増えませんでした。庶民の支持が得られなかったのです。勤め人は連休になったら、さっそく観光に行ってしまったのでしょう。デモなんかより観光が優先されたわけですね。これで勝負がつきました。

 香港の学生が、(庶民の支持が得られないという点で)学園紛争のころの日本の学生と同じレベルだなんて、ちょっとがっかりしました。


※今日、気にとまった短歌

   ベッドから落ちいる夫(つま)を上げられず二人の鼓動を聞くばかりなり  (福岡県)山本比呂子

年功序列を排する困難さ(2)(人間の認識能力の限界)

2014-10-16 05:03:04 | 文化
   (ゴマブックス刊。)

 七色の虹といい7つの海といいます。人間が一度に識別できるのは対象物が7個前後までです。

 それ以上の数を認識しようとすると、7個くらいの対象物をひとまとまりにして、このまとまりを1チャンクと呼ぶことにすると、今度は人間は7チャンク前後まで識別できるようになります。ざっと49人ですね。

 今度は7チャンクをひとまとまりにして・・というように段階的にまとめなければ、人間はたくさんの対象を認識できないのです。(このことを実験心理学的に証明したのが、「マジカルナンバー7プラスマイナス2」という超有名な論文です。この論文は 2013-10-21 の記事でもご紹介しました。)

 狩猟採集時代には人類は30~40名の「バンド」という単位で行動しました。1家族7人で7家族という感じでチャンクが構成されていますね。石器時代にはその程度の人数を認識できればそれでよかったのです。

 ところが、人間が何万何十万と集まって国家を作ろうとすると、まずおおまかに大集団を7つくらいの集団に分けないと認識できなくなります。そこで採用されたのが身分制度でしょう。

 つまり、身分制度は組織(の成員)を認識する手段のひとつなのです。士農工商は4段階でインドのカーストも4段階ですよね。身分が7段階より多くなると今度は認識できないのです。身分制度というものは、人間が国家を成すときに必然的に要求されるチャンク分けの一方法だったというのが私の仮説です。

 能力でチャンク分けすると、社会が不安定になります。(身分制度にくらべて、能力はテーマによって異なるから。)だから、企業では身分制度に代わって「年功序列」によってチャンク分けを行うことによって、企業集団を認識可能にし、組織の安定化を図ったのではないでしょうか?(社長、役員、部長、課長、係長、ヒラという分け方も7段階を超えていません。)

 「年功序列」制度は、こうした人間の基本的な認識能力の限界にも基礎を置いていますから、軽々に壊せないのだと私は考えています。

年功序列を排する困難さ(1)(日本文化による縛り)

2014-10-15 05:20:31 | 文化

(五倫書。台湾・中央研究院のHPより引用。)

 日本にはむかしから「一日の長」とか「亀の甲より年の功」という諺というか規範があります。儒教の教えから「長幼の序」という言葉も根付いています。

 これらの規範は日本の文化に深く浸透しています。会社の「年功序列」という枠組みもこれらの規範に根拠を置いています。

 ですから、生産第一主義のために「成果主義」を導入して「年功序列」を排するには、まず古くからの日本文化を破壊しなくてはなりません。その覚悟がなくては、軽々に(職場に限って)「年功序列」をやめるなぞと言ってはいけません。

 人間が何万人と集まると、序列をつけなくてはまとまりません。(これは人間の認識能力の限界で、この限界については次回に述べます。)日本は、たまたま序列をつけるのに上の写真の「五倫書」の「長幼の序」や「父子の親」といった基準をもってきました。

 能力さえあれば有利になるという基準を設けなかったのは、徳川家康以来の国をまとめる伝統的な知恵なのです。

芸術絵画と商業イラスト(3)

2014-10-14 20:34:25 | 文化

Amazon より引用。)

 私はアンディ・ウォーホールの上の作品を少しもよいとは思いません。

 技巧も美的価値もありません。あるのはゴシップと功名心だけです。それに比べると、 前回示したロード・オブ・ヴァーミリオンのCG画集のほうが優れています。でも、ウォーホールのシルクスクリーンのほうがCGより何万倍も高価なのが現実です。

 ウォーホールの作品の価値はビートルズのサインと同じように(歴史的な価値があると)考えればよいのでしょうか?(これについては 2013-12-08 ですでに述べました。)

(「芸術絵画と商業イラスト」のシリーズはあまり人気がなかったので、このテーマはこれで終わりにします。)

芸術絵画と商業イラスト(2)

2014-10-14 00:02:09 | 文化

(高橋真琴の美少女画。セブンネットより引用。)

 上村松園の美人画は日本画芸術の最高峰のひとつで、価格はきわめて高価です。確かに松園の美人画はすばらしい。

 では、上の写真の高橋真琴の美少女画はどうでしょうか?たぶん原画でさえ松園の美人画よりずっと廉価でしょう。ここにも昨日述べたのと同じ「何が価値なのか?」という問題が含まれています。

 さらに言えば、歌麿の美人画は江戸時代のブロマイドとして庶民に親しまれたものですが、当時は手頃でも現在は非常に値段が高い。このような例を出せば際限がなくなるかもしれません。

 最近、下の写真のようにコンピュータカードゲームのキャラクターを美しく描いた画集さえ発行されています。たぶん原画もCGです。CGですからいくらでも増産することができます。こういう領域の美人画はどのように位置づければよいのでしょうか?技巧的にもこのCGは、松園や高橋や歌麿に劣らないと私は思います。(CGのイラストレーターは複数ですが個人名が残ります。工房で複数で描いたのは東郷青児も狩野派も同じですが、名を残したのはボスだけです。)

 松園や歌麿には歴史的な付加価値があるというなら、松園と歌麿の価値はビートルズのサインの価値に近いことになります。


(SQUARE ENIX 刊。)

芸術絵画と商業イラスト(2)への準備

2014-10-13 17:32:27 | 文化

(上村松園筆「序の舞」部分。「美の巨人達」のHPより引用。)

 上の写真は言わずと知れた上村松園の名作「序の舞」の部分です。日本画の美人画の最高峰とされ、記念切手になったこともあります。

 この作品はまぎれもなく芸術絵画でしょう。間違ってもこれを商業イラストという人はいないでしょう。

 さりながら、この美人画も浮世絵のようにデフォルメされています。例えば実物の鼻は、このように筆一本の曲線ではありません。この辺りを手掛かりに、次に美人画、美少女画について考えましょう。

芸術絵画と商業イラスト(1)

2014-10-13 00:04:57 | 文化

(洋菓子店・モンブランの包装。食べログ/東京より引用。)

 上の写真は自由が丘の洋菓子店・モンブランの包装です。図柄に東郷青児の絵画が使用されています。東郷青児は独特の美人画をデザインし、工房で生産した人です。

 商店の包装紙に使われているから、これはイラストなのでしょうか?多くの職人により流れ作業のように工房で作られたものです。芸術絵画と呼ぶには抵抗があります。

 でも、油彩は何百万円もして、その辺の画家が描いたものよりよほど高価です。

 この話は以前にしたビートルズのサインはなぜ高いのか?(2013-06-09)ということと関係がありそうですが、私はどうもまだ明快に整理できていません。どなたか、整理していただけませんか?


※今日、気にとまった短歌

  洗濯槽の溝にはまったビービー弾回り続けて息子は十八 (吹田市)小林冬子

小澤實氏の俳句

2014-10-12 15:56:31 | 俳句

(「NHK俳句」の一場面。中央が小澤實氏。明治大学・野生の科学研究所のHPより引用。)

 俳人というとみな老人です。しかし、俳人の中に私より若くて私がむかしから注目してきた俳人が2人います。それは小澤實氏と長谷川櫂氏です。

 小澤實氏は初め「鷹」所属、俳人協会賞を受けていますからホトトギスとは無縁です。2006年、句集「瞬間」で読売文学賞を受けています。彼の俳句に私が初めて接したのは、私が俳句を始める前、すなわち私が35歳くらいのことです。小澤氏は私より7歳年下ですから、きょう紹介する作品群は小澤氏が20代後半の作品でしょう。

 小澤氏をご紹介する気になったのは、最近テレビの「NHK俳句」に選者として出演するようになったからです。

   浅蜊の舌別の浅蜊の舌にさはり
   夏芝居堅物(けんもつ)某(なにがし)出てすぐ死
   ゆたんぽのぶりきのなみのあはれかな
   くわゐ煮てくるるというに煮てくれず
   虚子もなし風生もなし涼しさよ

 第1句目「浅蜊の舌」は透徹した観察眼です。台所で塩水にひたした浅蜊に普通に見られる光景ですが、こうして句にされると不気味なほどのリアリティーがあります。

 第2句目は、どさ回りの剣劇芝居を詠んだものでしょうか。堅物なにがしというチョイ役が出演したが、すぐに斬られて死んでしまうのです。田舎芝居にありそうな光景を巧みに詠んだものだと思います。

 第3句目、湯たんぽのブリキの波を「あはれ」といっています。言われればそんな気がします。

 第4句目は、とんでもなく素っ頓狂な句です。くわいを煮てくれると言ったのに、煮てくれなかったと文句を言っているのです。「くわゐ」という食物がもっている可笑しみが利いています。「くわゐ」が他のいも類であったなら、これほど面白い句にはならなかったでしょう。

 第5句目は、大家を懐かしんでいるのか?それとも「いなくてよかった」と思っているのでしょうか?

 やはり私の俳句より上だと思わざるを得ません、当たり前ですが。

プラセボー(偽薬)効果(4)(有意水準(危険値)とは何か?)

2014-10-12 05:54:28 | 医療

陶芸の里あすかのHPより引用。)

 壺があって、その中に赤い豆1,000粒と白い豆1,000粒が混ざって入っていると想像してください。

 目隠しをしてその壺から豆を10粒取り出すとします。(これを1トライと呼ぶことにします。)取り出した10粒の豆は、赤と白がほぼ半々になるでしょう。しかし、全部赤い豆だったり、全部白い豆だったりすることもまれにあります。むろん、赤い豆が1粒で残りの9粒が白い豆のこともあります。

 このトライを100回くらい行うと、全部赤い豆や白い豆という例はきわめて少なく、5:5とか4:6ということが圧倒的に多いでしょう。そのときに、壺の中には赤い豆と白い豆が同じ数はいっていると言いきってよいかという問題が生まれます。

 200トライくらい行えば、5粒と5粒というケースが一番多いヒストグラムが出来上がります。200トライのまとまりをさらに20回行うとします。

 そうすると「壺の中には赤白が(ほぼ)同数入っている」という主張が20回できます。この20回の主張のうち、1回くらいは間違っていてもよいと制限をゆるくすると、「壺の中には赤白が(ほぼ)同数入っている」という主張は有意水準(危険値)を5%と見込むなら、言ってもよいということになります。

 しかしながら、有意水準を1%ときつくすると、まだまだトライの数が足りません。

 実は抗うつ剤SSRIの薬効調査で、プラセボーより効くという調査結果はすべて有意水準5%で行われています。1%ととするとほとんどの調査でプラセボーとの有意差がなくなってしまいます。

 さらに、有意水準5%で統計をとってもプラセボーとの有意差が見いだせられなかった調査は、そもそも発表さえされません。これを出版(公表)バイアスといい、現在問題になっていることは、2014-05-16 に述べたとおりです。そのページから「すべての治験を登録して公表せよ」というTEDの動画が見られますが、ここに再録します。(All Trials Registered...)。日本語字幕がついていて、たいへん分かりやすいので、ぜひご覧ください。

(私は統計学者ではないので、上の説明は数学的に不完全かもしれません。でも、概念的にお分かりいただければOKです。)

プラセボー(偽薬)効果(3)(プラセボー効果と信心、修行、座禅、悟りなどとの関係)

2014-10-11 00:55:51 | 医療

(座禅中の脳波測定。Gigazine より引用。)

 「プラセボー効果」が脳内のどんな物質の変化なのかが明らかになれば、それが単に「思い込み」に過ぎないのか、もっと別の機序なのかが分かってくるでしょう。

 そこで、「信心による効果」はプラセボー効果なのか別物なのか?といったことも分かってくるでしょう。私は今のところ「神仏への信心よる安寧」とプラセボー効果は同じものだろうと考えています。

 私の父方の明治20年代生まれの祖母は、特定の宗教ではなく「それらしいもの」は何でも拝んでいました。名刹の仏像はもちろん道端のお地蔵さんや道祖神にまで手を合わせていました。神社のお札を買ってくるのも好きでしたね。祖母はそれによって心の落ち着きを得ていたのでしょう。これって「プラセボー効果」だと思われませんか?

 そう考えると、宗教的な修行すなわち座禅などには、どんな効果があるのでしょうか?座禅で心が落ち着くのは「プラセボー効果」とは違うのでしょうか?

 「悟りを開く」とよく言いますが、私は悟りを開いたお坊さんを見たことがありません。修行僧は座禅をしていて、突然「分かったー!」という境地に達するそうです。しかし、それは「悟り」ではないそうです。

 座禅中のお坊さんを驚かせると脳波が乱れます。しかし、ただちに脳波は正常に戻ります。凡人が座禅をしていて驚かされると脳波はすぐには戻りません。これは座禅の効果だとみなされてきましたが、一流のアスリートにも脳波がすぐに戻る傾向が見られ、座禅特有の現象ではないようです。

 西洋では座禅が輸入されメディテーション(瞑想)として流行りましたが、科学的な研究では「瞑想にはなんの医学的効果もない」という報告があります。

 で、「悟り」ですが、「悟りを開いた」というお坊さんに出会ったことがない以上、「悟り」とは架空のものではないかという疑念が拭い去れません。それとも「悟りを開いた」とは自分で言うものではなく、他人からそうだと認められるものなのでしょうか?

プラセボー(偽薬)効果(2)(効果の程度を表す指標の問題)

2014-10-10 00:11:17 | 医療

田辺三菱製薬のHPより引用。)

 今日の話は少しこんがらがりやすいかも知れません。でも、ちょっと頭をひねってください。

 ある個人にとって、Aという薬がどれくらいよく効くかは、とてもよく効く→まあ効く→効かないといった100点から0点までのグラデーションをつけることができるでしょう。それによって薬効がどの程度測定できるのか?というのが今日のテーマです。

 上のグラフは、実薬とプラセボーで効き方が日数によってどう変化するかを示したものです。実薬群もプラセボー群も日が経つにつれて効くようになります。2本の線が右肩下がりなのがそれを表します。

 ところが、この曲線は各群の効いた効かないという程度を、各群の「平均点や合計点で表したもの」です。つまり、個人にどう効いたかではなく、群としてどうだっだかということが測定されています。

 ここでは簡単のために「効いた・効かなかった」の二値で評価する場合を考えましょう。そのようにして効果を測定すると、必ず集団を対象としなくてはならなくなります。つまり、100人いたら何人に効いたか効かなかったかという値が必要になります。

 ここで問題となるのは、ひとりの「個人での薬効の現れ方」が、「集団で測った時の現れ方」で代用できるという(根拠のない)テーゼが正しいと前提してよいのだろうかということです。

 言い換えれば次のようなことです。個人でも薬効が100%現れる人と0%の人が存在するはずです。その中間にいろんなレベルの人がいるでしょう。100人の人に投与した場合、60人の人に有効だったとして、この60%という数字から、「個人においても60%くらいの効き目がある」と推論してしまってよいのでしょうか?

 つまり、一番初めに効く・効かないの二値で測定したのに、個人に対して60%の効果があるという結論を主張しうるでしょうか?ということです。

 今回、話が小難しくてすいません。結論してよい・いけない・それは定義次第と言った回答が考えられますが、明快にお答えが出せる方、ご教示ください。


※今日、気にとまった短歌

  知る者のこの世にゐない校長の胸像部屋の隅に置かれぬ  『青昏抄』・楠誓英



発光ダイオードの思い出

2014-10-09 05:02:12 | 工業

(発光ダイオード。ウィキブックスより引用。)

 20代のころ、ICチップが秋葉原で手に入るようになり、デジタル工作に凝ったことがあります。工学部の友人Y君に手取り足取り教えてもらいました。

 ICチップはNANDゲートやANDゲートが3個入ったチップで一個10円から50円くらいだったでしょうか?(いまの1ギガ倍の値段ですね。)チャタリング防止回路やフリップフロップがNANDゲート2個で作れました。(フリップフロップのICは別に存在していました。そのほか100種類以上の論理ICがありました。)

 当時のICチップはほとんどアメリカのテキサスインスツルメンツ社製で、5ボルトが1、0ボルトが0を表わしました。1と0の境目は3.5ボルトあたりだったと思います。ICチップの出力1の電圧が3.5ボルトより低くならないようにとか、回路が部分的に振動を起こさないようにと、適宜コンデンサや抵抗を挟ませましました。これはアナログ技術であって、デジタルは関係ありません。

 出力1を可視化するのに赤色発光ダイオードを使用しました。別に黄色の発光ダイオードが売られていましたが、使用しませんでした。発光ダイオードは一個10円くらいだったと思います。

 上の写真のように現在でも発光ダイオードはプラスチックのカバーで覆われ、プラスチックには透明の赤や黄色のものが使われています。ですから恥ずかしいことに、当時私は発光ダイオードの色はカバーのプラスチックの色だと思っていました。

 ところが中村さんの青色発光ダイオード実用化のニュースを耳にして、「あ、カバーの色は関係ないんだ!」とやっと気づいた次第です。気づいてからもう10年以上がたったのですね。

(「発光ダイオード」という名称がいつの間にか「LED」となってしまいました。私にはちょっと「座り」が悪い感じです。)

プラセボー(偽薬)効果(1)(なぜ効くのか?)

2014-10-08 00:29:47 | 医療

週刊ダイヤモンドより引用。)

 このブログではある薬が本当に効くのかは、プラセボー(偽薬)を投与する対照群を置いた二重盲検試験を行わなくては確実には言えないと述べてきました。

 ところが大雑把に言って(向精神薬の場合)本物の薬が60%の人に効いたとしても、プラセボーでも40%の人に効くのですね。

 私たち臨床家からすれば、プラセボーでも40%の人に効くなら、その効果を利用しようという発想が出てきます。効果が同じなら、化学物質(実薬)よりプラセボー(小麦粉を丸めたもの)のほうが優れているという考え方があり得ます。

 プラセボーが脳内でどのように効くのかという研究も始まっています。このような研究は「思い込み」とは何か?という疑問の答えを求める研究でもあります。その仕組みが解明されるのが待たれます。

 こうした考え方からは、このブログで批判してきたサプリメントアリナミンEXゴールドも存在価値があることになります。

 科学的な文脈なら冒頭の批判的な見出しの記事のようになるのですが、実利的な(偽薬でも効けばよいという)文脈でも薬の効能を語りうるわけですね。  

年功序列廃止の掛け声、またですか?

2014-10-07 00:17:05 | 経済

インターネットコムより引用。)

 「年功序列をやめて、成果主義にする」と日立製作所が発表しました。政府もこの方針を後押ししているようです。

 ですが、この方針はすでにバブルが崩壊したころに、しきりに言われたことです。なぜ、また同じことを言わなくてはならないのでしょうか?

 そのとき年功序列の廃止に失敗したからでしょうか?いいえ私は、かつての年功序列廃止は必ずしも失敗していなかったと思います。

 というのは、あれ以来、非正規労働者が激増したからです。非正規労働者に年功序列はありません。つまり、労働市場ぜんたいで見れば、年功序列でない労働者が増えたぶんだけ、年功序列の廃止が成功したとは言えないでしょうか?

(別の言い方をすれば、年功序列の廃止は、多くの非正規労働者を生むという思わぬ副作用をもたらした、ということです。)


※今日、気にとまった短歌

  一度だけ二度とは言はぬこの我がおいくらですかと二度レジに聞く (豊田市)湯浅和己

株式市場の二面性--「流通市場」と「発行市場」

2014-10-06 00:14:17 | 経済

(東京証券取引所前景。埼玉県のHPより引用。)

 私はこれまで株というものを買ったことがありません。ひとつには値下がりするのがイヤだからです。もうひとつは株の売買にギャンブルの匂いを感じるからです。

 株をやっている友人のN君は「株を買うのは投資をすることで、日本の経済活動に参加することだ」と私に株を買うように勧めるのですが、私にはその説明が腑に落ちませんでした。

 ところがこのたび、株式市場には「発行市場」と「流通市場」があると聞いて、大いに納得しました。(こんなことは金融関係者には「いろは」の「い」なのでしょうが。)

 説明によると、A社の株を100株70万円なら70万円で買ったとしましょう。その70万円はなんとA社には一文も行かないのだそうです。どこに行くかというと、A社の株を売った人のところです。これを「流通市場」というそうです。

 要するに私たちが株の売買をして儲かるのは、株で損をした人がいるからです。A社とは関係のないところで、損をした人から儲けるのはまさにギャンブルです。

 一方「発行市場」というのがあって、これは会社が上場して株を売り出したり、増資をして新しい株が発行されたときに売買が行われる市場です。新しい株を買うのですから、そのお金は会社に入ります。投資といえるのはこの部分だけです。

 それなら「発行市場」だけ存在すればよいかというと、そうではありません。「発行市場」で買った株を手放したいときに、売りを受け付ける市場がなくてはなりません。それが「流通市場」です。だから、両方の市場が必要で、「流通市場」はギャンブルだから必要ないとは言えないのです。

 さらに「流通市場」には、そこで株価が決まることによって、その会社の業績なり信用なりが客観的に評価される機能があるのだそうです。

 以上の説明で、私には株式市場の構造がすっかり飲みこめました。同時にN君の説明があまりに不正確であることも分かりました。(N君は原稿用紙2枚で言えることが言えなかったのです。)