いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

塩瀬ゼミ ー(2)

2009-08-29 20:06:28 | 日記
 財津和夫編です。
 1971年頃だったか、当時、会社で仕事をしていたら、シンコーミュージック
の草野さんから電話があった。(この辺の詳しい話は、本ブログの「サンクス・ギ
ビング、塩瀬さん」参照) 当時、面識はなかったが、音楽業界では知られた有名
な方なので会うことになった。

 チューリップの「魔法の黄色い靴」のテープをその場で聞いてくれと言う。アコ
ースティック全盛の時代にすでにエレキサウンドで、ちょっとビートルズっぽい曲
で、ハーモニーに特徴があり、特に日本語の詞が今までにないおもしろい使い方を
しており、これはおもしろいと、応援しようと思った。
 「魔法の黄色い靴」を聞く。

 当時、名古屋にライヴハウスがなかったので東海ラジオ第1スタジオに100名
の観客を集めて、すぐにチューリップの公開ライヴをやった。チューリップがギタ
ーを弾いてステージの前方に出ていくと、今なら観客がワーッと盛り上がるけど、
当時のチューリップは、観客が一斉に後方に下がっていくのを見て、この音楽は早
すぎると思った。

 この時のチューリップは、福岡の田舎から出てきたバンドで、長髪にキタナい格
好をしていたが、ただ、5人のなかで、財津和夫さんは福岡から4人を連れてき
て、自分の責任で仕事をやろうとしたわけで、貫禄はあった。

 ヒット曲のないまま1973年3月にチューリップは3作目のシングル「心の旅」を
発表した。すぐにはヒットしなかったが、5か月後の9月にヒットチャートの1位
になった。

 この曲は、財津和夫さんの作詞、作曲で、当然、自分がリードボーカルをやるも
のと思っていたそうですが、誰かが、多分、草野さんだと思うんですが、女の子に
受ける甘い声の姫野くんに歌わせた方がいいということになった。

 そもそも、財津和夫さんはビートルズのようにツインボーカルのバンドをつくろ
うと思って、姫野君をチューリップに入れています。
 当時は、フォーク派からはフォークではない、ロック派からはロックではないと
いわれて、財津和夫さんは、これは「チューリップだ。」と言ったように、まった
くあたらしいサウンドだった。

 このままいくと、アイドルグループでいくことになるかもしれないと、この時、
財津和夫さんと新田さんが、周りは反対したらしいけれど、1974年に「青春の
影」を出した。
 チューリップはライヴバンドですので、ライヴバージョンの「青春の影」を聞
く。

 この曲で、チューリップは音楽的な面を愛するファンが増えて、その後長く活躍
することになる、重要な曲になります。
 ファンの間では一番愛されており、後世に残る昭和の名曲だと思っています。

 財津和夫さんとは、ラジオ番組をやろうということになって、「人生ゲーム」と
いう番組を13年続けてその後中断のあと、「人生ゲーム21 心の旅」として再
開した。最初は、財津和夫さんは嫌がったけれど、ライヴに絶対にいきてくると進
めた。

 トヨタ自動車の宣伝部にいた人が名古屋の人で、昔「人生ゲーム」をよく聞いて
くれていた人で、会社を説得してくれてトヨタがスポンサーになって全国ネットで
放送できた。今も、東海ラジオだけですけれど、細々と続けています。

 1980年に野外コンサートをやろうということになって、岐阜県の鈴蘭高原に
1万5千人を集めてチューリップの野外コンサートをやった。どしゃぶりの雨の中
での野外コンサートで、後に「雨の鈴蘭」として有名になった。

 この時、ライヴでやるあたらしい曲をつくろうとなって、財津和夫さんが「シュ
ーティング・スター」をつくってきて、この野外コンサートのオープニングでやっ
た。財津和夫さんは、宇宙とか空にあこがれをもっていた。財津和夫さんは、ひろ
がりのあるきれいな曲をつくる、すばらしいメロディメーカーです。
 「シューティング・スター」を聞く。

 どしゃぶりの雨になってきたので、予定より早くコンサートを始めることになっ
た。当日は現場からの生中継をラジオ番組でやることになっていた。早く始めたコ
ンサートを録音し、それを編集して番組時間になって放送した。下界で聞いていた
人は、その時は生中継をやっていると思って聞いていたと思う。

 コンサートすべてを録音して、40分後の放送開始までの間にプレイバック編集
した。どしゃぶりで照明は真っ暗な中での大変な編集作業だった。
 普通、生中継のステージでは、コンサートすべてを予定通り放送時間におさまる
ことはないけれど、この時は放送時間内にオープニングからアンコールまですべて
ピタッとうまく入って放送できた。

 財津和夫さんも言っているように、みんながひとつになったこのコンサートで、
コンサートへの考え方が変わったというように、お陰で、その後の中継にも恐れる
ものがなくなった、非常にいい経験となった。

 チューリップの結成10周年の年に記念になにかやろうとなって、名古屋城でコ
ンサートをやろうということになった。
 当初、名古屋城管理事務所は、国宝のあるところで、若い、何をやるかわからな
い人々が、何をやるかわからないからと、使用を認めなかった。何とか説得して、
名古屋城(深井丸広場)でコンサートをやることになって、実現した。

 その時も、最初は雨が降ってきて、コンサート開始の頃にはやんだけれど、チュ
ーリップのファンは非常に良くしてくれて、コンサート終了後はみんなでゴミを拾
って集めて、片づけて帰って、名古屋城管理事務所の人も、これに感激して、その
後、名古屋城でのコンサート、イベントへの道をチューリップがひらいていった。

 「ひとつ屋根の下」のテレビドラマのテーマソングとして流されたのが「サボテ
ンの花」です。ポップ風に歌っているが、ここでは、きれいに歌って、財津和夫さ
んの声の特徴がよくわかるバージョンを聞きます。
 「サボテンの花」(アコースティックバージョン)を聞く。

 「サボテンの花」は、チューリップもみんなで歌える、気楽に聞いてもらえる曲
をつくろうと意識してつくられた財津和夫さんのつくった曲だといわれている。
 そもそもは1975年の2月、ずいぶん前に発表されて、「ひとつ屋根の下」の
主題歌で2度目のヒットをした。

 財津和夫さんは、この曲でもわかるように、作曲家としても才能がある方で、松
田聖子さんとか、他の歌手へも曲を提供しているんですが、平成になってから、沢
田知可子さんに、これは作曲だけですが「会いたい」を提供してヒットしました。
この曲を財津和夫さんが自分でカバーして歌っている「会いたい」を聞く。

 財津和夫さんは、アマチュア時代から、福岡に財津ありと、人気があった。陽水
はまったくの無名。
 井上陽水と財津和夫は、共にビートルズに影響を受けてミュージシャンとなり、
陽水はジョン・レノンに、財津和夫はポール・マッカートニーに影響を受けて、そ
の辺に二人の違いがある。

 

 

 

 

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塩瀬ゼミ ー(1)

2009-08-29 14:02:12 | 日記
 8月28日に名古屋で元東海ラジオディレクターの塩瀬さんが、日本を代表する
シンガーソングライターの井上陽水、財津和夫さんとの出会い、その後の音楽、仕
事上の付き合いについて語る、セミナー(ミュージックカフェ)に参加した。

 会場は、オープンスペースのカフェで、参加者にはコーヒーとケーキのセットが用意
されている。14時30分セミナー開始前に、講師の塩瀬さんがカフェの窓ガラスを背
にした講師卓のテーブルに着いて、陽水のアルバムをかけている。窓ガラスからは
、ビル群と夏空、過ぎゆく夏雲が映える。14時30分にセミナーは始まる。

 井上陽水、財津和夫との交流を通じて、話をしてきたこと、経験したことを彼らの音楽
を聞きながら話したい。出会いとか、交流を通じた話をしていくので、普通の紹介話とは
違います。セミナー参加者の中には、熱心に大学ノートに記録する人も複数いる。

 まず、井上陽水編です。
 レコード会社からテスト盤が各種送られてくる。発売の1か月前から、1週間前というの
もある。それらをレコード室で聞いて、ラジオに流す曲を選ぶのはディレクターの楽しみだっ
た。その中に、アンドレカンドレが歌う「カンドレマンドレ」という曲があって、奇妙なタイトル
にひかれて聞いてみた。(この辺の詳しいことは、本ブログの「サンクス・ギビング、塩瀬さ
ん」参照)
 所属するホリプロに交渉して、本人に名古屋に来てもらった。交通費と、いかばかりかの
ギャラも用意した。
 「カンドレマンドレ」を聞く。(多重録音、テープを変速するところは、ビートルズの録音技法
そのもの)

 アンドレカンドレとしては3曲をつくったけれど、自分のつくった曲もなんだかわからなくて、
制作会社からは、作曲には能力がないからシンガーに専念しろとまで言われた。
 その後、ポリドールのディレクターに認められて、1年後に井上陽水で再デヴュー、自分の
両親のことを歌った「人生が二度あれば」は地味な曲だったので、ロック調の派手なB面の
「断絶」を積極的に深夜放送でかけた。
 「断絶」を聞く。

 1973年の3月に3枚目のシングルとして「夢の中へ」を出す。この曲は、栗田ひろみ主演
の映画の主題歌として発表された。ポリドールの宣伝部では、ボクが陽水を好きだと知って
いたので話があって、それじゃ名古屋で試写会をやろうということになって、陽水を呼んでそ
のステージで歌うことにした。深夜放送のファンが大勢駆けつけて満員になったが、みんな
映画より陽水の歌に酔って帰った。
 「夢の中へ」聞く。

 当時、陽水が名古屋に来てタクシーに乗ったときにラジオから自分の歌が聞こえてきて、
初めてのことなのでうれしかったと言った。今はビッグアーティストでも、そんな時代がある。
 1973年「心もよう」という曲を出し、全国的なヒットとなり、その年の12月にイギリスでレ
コーディングをしたアルバム「氷の世界」を発表し、これが1か月で30万枚売れて翌年度に
は日本で初めてのミリオンセラーを記録した。
 「氷の世界」を聞く。

 今年、全国ツアーを5月8日から始めている。その前の5月2日に忌野清志郎が亡くなって、
このステージのオープニングで清志郎にささげる曲として、泣きながら共作の「帰れない二人」
を歌った。
 「帰れない二人」を聞く。

 この歌は、アルバム「氷の世界」にも入っていて、清志郎は当時のまずしい時代に、この印
税で生活することができたと言っていた。

 今年、名古屋のコンサートで陽水はお孫さん3人を連れてきて、これが陽水の膝にまとわり
ついて、娘の子だと言っていた。

 



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