日暮らし通信


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転居してから五年が経ちました

2014年06月21日 20時42分05秒 | 日暮らし通信
日暮らし通信

■□ 写真タイトル と 撮影場所 □■

花菖蒲

北山公園菖蒲苑



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6月14日、この日はここに転居してから五年目だった。

永年住み慣れた所から転居する? このことは私にとっては人生最大の ”大仕事(おおしごと)”だった。

先祖伝来の土地を離れることへの葛藤は私を充分に苦しめたが、同時に妻の介護と言う終わりの見えない先行き不安の将来への布石をどのようにするのかを定めるのが最優先でもあった。

転居を決断するまでは精神的な重圧が()し掛かったが、決めた後は物理的な仕事に悩まされることになった。

それは業者に家を明け渡す時は空家が条件だから、衣食住に関わる不用品を整理しなければならないことだった。

不用品は屋内だけでは無く、物置小屋や車庫、私の趣味であった洋蘭を育てる小さな温室、そして庭と、手を付ける前は気の遠くなるような膨大な量のように思えた。

さてその不用品はどのように処理するか? と悩んだが取りあえず市のゴミ処理ルールに従って始めることにした。

しかし不用品整理を始めてからすぐ私の考えが甘かったことに気付いた。
市のゴミ収集だけではとても追いつく量ではなかった。

どうしようか? でも神様は私の味方だった。偶然の成り行きで、若いリサイクル業者との出会いがあった。

その若者曰く 「何でもいいです。分別も必要ありません」 と言う。
助かったと、私は思った。とにかく袋詰めにすれば不用品処理が(はかど)るからだ。

でも永年住んだ家から全ての不用品を整理するのは大変な作業量だった。

前述で私は人生最大の ”大仕事(おおしごと)”だと言った。

正しく私の大仕事の多くは不用品整理だったが、この大仕事は今だから振り返ることができる。

この時期、朝から晩まで一生懸命不用品を整理することに私も没頭した。だから今も想い出せるのだろう。

私が転居したことを中傷するような噂があることを知人から聞いた。
でも私はこの転居が妻を介護するためのベストの道だったと信じて実行した。

今は私の思い通りに朝から晩まで妻の介護に専念できる。

転居してから五年、これからも妻の容態が穏やかであることを祈るばかりだ。





もう七年半が過ぎました

2014年06月21日 15時18分19秒 | 日暮らし通信
日暮らし通信

■□ 写真タイトル と 撮影場所 □■

花菖蒲

北山公園菖蒲苑 (東村山市)



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6月20日・金曜日、天候晴れ。

その日は妻の通院日。予約時間が早いので目覚まし時計にお願いして3時半に起こしてもらった。

普通病院の診察は9時開始だが、妻の担当医は8時から診察するので、その日は8時26分予約だった。

丁度6時半車で家を出発、病院までは12キロくらいなので道路が空いていれば最短35分くらいで着くのだが、時間帯によっては1時間以上かかることもある。

この時間帯だといつも空いているが、私は運転しながら妻が入院した当時を想い出した。

妻が二度目の入院をしたのは8年前の6月19日日だった。

それから退院までの約四カ月、私は毎日病院へ通うのが日課になった。

ある看護師さんから 「こんな永い間毎日来るのは○○さんだけです」 とお褒めの言葉をいただいたが、毎日妻を見舞う心境は複雑そのものだった。

それは妻の病名が定まらぬことだった。この病院での検査だけではなく、地方大学の研究機関へ検査依頼をすることも何度もあった。

その度に私の同意が必要なので医師から説明があったが、その中に出てくるのは私が驚くような病名ばかりだった。

そんな私が救われたのは看護師さんたちの対応だった。

私が何を言っても看護師さんは穏やかで優しく真面目で、その好意の中に妻を任せることは私にとっては安心できることでもあった。

この公立病院の看護師さんたちは廊下ですれ違っても必ず頭を下げるのが私には爽やかに感じたが、そんな礼儀正しさを私が通院している病院の看護師たちに見せたいくらいだった。

そして退院、しかしそこには薬漬けになった妻が安定するのには約一年以上の時を要したが、とにかくいろいろなことが私たち夫婦を巡って通り過ぎていった。

そんな様ざまな出来事・苦労も今ではほとんど忘れたが、妻の退院からもう7年半が過ぎた。

 ”早い” と、また私は時の流れのスピードに ”光陰矢の如し” と綴った先人たちの教訓に(うなずく)くばかりだった。