日暮らし通信


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なかにし礼さんの記事を読んで

2018年11月14日 09時39分43秒 | 日暮らし通信
from 赤とんぼ



■□ 写真タイトル と 撮影場所 □■

ケイトウ の 花園

街中にて
(撮影: H301113)



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購読している新聞朝刊に 「時代の証言者」 とのタイトルで連載記事があり、私は何よりの話題よりこの記事を優先して読んでいる。

世の著明な人たちが生誕から現在の活動などに至るまでを自伝風に纏めたこの記事は私に大きな影響を与えている。

今の執筆者は作詞家の 「なかにし礼」 さんだ。小説家でもありそして多くの歌の作詞家としても有名な人だ。

なかにしさんは満州国・牡丹江省牡丹江市生まれだが、終戦後、満州からの引き揚げでは家族とともに何度も命の危険に遭遇、この体験は以後の活動に大きな影響を与えた。

本土に引き上げた後は親戚の(つて)などで青森で小学校時代を過ごしたが、そこでは六年間 「いじめ」 に遭い、今でもそのいじめた者の名前は忘れていないそうだ。

その内容を読んでいると、都会から来た転校生を土地の子供がいじめることは良くあることで、このような例はたくさんあると聞いている。

そして前述したが、いじめた者の名前は何十年経っても嫌な思い出と共に脳裏に硬く残されていることは、それだけに大きな影響を受けたからだろう。

そのなかにしさんの記事を読んで、私も中学二年生の時に受けたいじめをまた想い出してしまった。

学校に行くといつも同じ時間に決まった生徒からのいじめを受けた。暴力では無かったが、精神的に傷を受けるような言葉での暴力だった。

何故、私がいじめを受けたか? それは私の家庭は貧しかったから、服装なども他の家庭の子とは少し違ったことが、槍玉に挙げられたことになったのだろうか?

いじめるのはいずれも親が自営業の息子たちで裕福な暮らしの生徒だったが、なかにしさんが言うようにそのいじめた者の名前を今でも忘れたことはない。

いじめるのはいつも三人、八百屋の息子のK、金物屋の息子のE、そして魚屋の息子のYと、しっかりと憶えている。

今、小学校、中学校などではこのいじめの問題が後を絶たないが、私が経験した時代と今ではそのいじめの受け方が大きく変わっていることだ。

いじめを受けていても私は深刻な事だとはあまり考えず、いつかは嵐が過ぎるように平穏になるだろうと思っていたくらいだった。

まして、今はそのいじめが原因で自らが死を選ぶようなになってしまったが、私はいじめを受けても 「不登校」 や 「死ぬ」 ことなどは考えたこともなかった。

いじめを受けている時間は永い時の世界に入ったようだったが、いつかはまた普通の状態に戻るものだと思いながら必死に耐えていたのは事実だった。

そんないじめの時間、同級生は何も言えずに私がひたすら耐えている姿を見ていたに違いない。そんないじめを先生に訴えるなんて、これも考えたこともなかった。そんな時代だった。

中学三年になってクラス替えがあって、そのいじめも無くなった。だがそのいじめは私のトラウマとなって消え去ることはない。

いつだったか? ある時、そのいじめた三人が糖尿病で苦しんでいるとの情報を聞いた。 「ざまあ~ みろ」 と、文句を言い返したかったが、そんな気持ちはすぐに捨てるべきだと後悔した。

そのような環境の中で過ごした中学二年生だったから、同窓会には絶対に参加するつもりはない。

今のいじめは凄絶だから怖い、そして度が過ぎると死に繋がっている。このように平和な時代なのに若い命を捨てることへの無意味さを、教育関係者はじっくりと教えるべきだ。

なかにしさんの記事の中でもう一つ感銘したのは、満州から本土へ引き上げるまでの壮絶な生き様だ。不可侵条約を一方的に破棄したソ連軍の暴虐ぶりに、幾多の日本人が犠牲になった。その多くは成人男性を軍隊に取られて無防備な状態に残された幼子、高齢者そして女性ばかりが悲劇の場に追いやられた。日本人ならば必ずこの旧満州の歴史を学んでおくべきだと思った。

残念ながらどのような手を打っても世の中から 「いじめ」  は消えそうもない。だがそれにより若い命が失われることだけは絶対に避けなければならない。人間が人間を守れない、そんな無為の時代はもう終わりにしようではありませんか。




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