続きです。
永井直勝は本来、徳川家の軍師の地位を約束された人物でした。何たって家康の長男である松平信康の一番の側近だったのですから。
松平信康は性格横暴との記載もありますが、それらの書は徳川家が天下を取ってからの書物での話です。どうとでも書けます。
現に信康の自害と、その母親・築山殿の殺害は全て織田信長のせいだとなっていますが、近代の調査ではそれは間違っていたとされています。
築山殿の父親・関口親永は今川家に仕えていたが、家康が今川家を裏切り、織田家に付いたことで切腹した説があります。また築山殿の母親は今川義元の伯母とも妹とも言われている存在です。
その今川家を夫の家康は裏切り、敵の織田家に付いた。そりゃ、夫婦仲も悪くなって当然です。
実は築山殿は家康よりも2歳年上との話ですが、10歳年上の説もあります。家康が15歳の時に結婚した訳ですが、その説が正しいのであれば築山殿は25歳となります。
ご存じかも知れませんが、松平信康は美男子です。家康とは似ていません。しかも10歳年上説が正しいのであれば、築山殿は誰かの側室だった可能性があります。当時の25歳は今の40歳の感覚です。家康も信康が自分の子なのか疑い出した可能性があります。
家康の次男である結城秀康の妻は築山殿の下女です。築山殿に酷い折檻を受けたとされていますが、秀康も家康とは似ていない。結城秀康の母は、男関係にルーズだったとの話もあります。
だから本当の意味は人質ですが、豊臣秀吉に養子に出したと考えられます。
秀康の幼名は「おぎ丸」。「おぎ」とは私も釣ったことがありますが、黄色っぽい鯰に似た淡水魚です。顔が似ていたからそう名付けられたと聞いています。
更に結城秀康は当時としては忌み嫌われていた双子で産まれています。その点も家康に嫌われていたみたいです。
松平信康に話を戻します。信康と直勝の出会いは当時の祭りである念仏踊りでです。直勝の美少年ぶりと見事な太鼓捌きに魅了された信康が直勝を小姓として迎えます。
直勝は確かに井伊直政と並ぶ美少年でしたが、其れだけが小姓として迎えられた理由ではない。
直勝の父・長田重元は大浜藩主であり曹洞宗の僧侶であり、熊野権現の宮司でもありました。
その大浜を奪おうと織田信長が長田重元に戦を仕掛けた。説によると信長が14~17歳の間に七度も襲って来たそうです。その七度とも重元は退けています。
まっ、14歳~17歳の信長ですから、ヤクザの出入りみたいな戦だったと推測しますが・・・・。
それでも信長に七度も勝った重元を父に持つ直勝に、信康と築山殿は興味を持った筈です。
更には重元の弟で直勝の叔父である永田徳本は、武田信虎・信玄親子の典医でもあった。武田家とも繋がりがある。
織田家に付くことを良しとしない信康・築山殿母子には、長田伝八郎、後の永井直勝は、家臣として願ってもいない人物だったと言えます。
続く。