長くなりましたが、そろそろ終わりたいと思います。続きです。
徳川家康が亡くなり、日光東照宮は黒衣の宰相・南光坊天海が、陰陽道や結界を駆使して建立されたとする説が有力です。
そして南光坊天海には明智光秀説がある。その一つの証拠として日光東照宮のそばに明智平の地名が見える。光秀てある天海が自分の姓を地名に残したと噂されています。
私は嘘だと思います。それは明智光秀の本能寺の変は余りにもお粗末だからです。っと言うより一か八か暗殺するしか無かったのかも知れませんか。
信長暗殺の原因は長曾我部との関連とか言われてますが、私的には明智光秀の子孫が著した本に書かれている説を採ります。
信長には光秀の領地を全て取り上げて、大陸に進出させる計画があった。上手く行くかは分からない。
試しに「どんなもんかな」と言う感じ。上手く行ったら儲けものと言う感じだっただろう。
光秀は50代中頃。何時亡くなってもおかしくはない。今後、活躍できる期間は短い。それで光秀に大陸進出を命じていたと思います。自分には逆らえないと思って。
光秀と同じ心境で関ヶ原の戦いで中立の立場をとったのが佐竹氏です。
佐竹氏は水戸54万石を所有していたが、近隣一族を合わせると80万石を軽く超える。そんな大物外様大名を徳川藩に隣接させておくわけにはいかない。実質250万石に成長した伊達藩とでも組まれたら、徳川は敗北する可能性がありますし。
私が家康ならどうするか。関ケ原の戦いで佐竹氏が徳川に付いたら、その褒美として蝦夷地を与えます。勿論、水戸藩は国替えにして。
家康も三河から関東に国替えされたのです。自分がやられたのだから、躊躇なく蝦夷地への国替えを命じると思います。
当時は他国同然の蝦夷地です。佐竹氏も行きたくはないでしょう。寒いし。
広大な領地は得られても開拓するのも大変ですし。
だったら領地を減らされても中立の立場を採った方がマシ。秋田藩20万石への国替えは、或る程度は覚悟していたと思えます。
話を明智光秀に戻します。光秀は信長を討った事により、朝廷から征夷大将軍に命じられています。天下を取る気は合ったと思えます。
しかし、織田家の家臣団は黙っていない。
せめて細川幽斎は味方してくれると考えていたみたいですが、その願いも潰えた。そして明智軍13000の兵は滅亡した。光秀の行動はお粗末だった。
天海ならそんな無謀な策は採らないと思います。滅亡する結果は目に見えていた。私だったら徳川に内通していたと思います。家康は光秀を尊敬していたみたいですし。徳川と明智なら豊臣に勝てたと思いますので。
続く。