続きます。終わりにしたいです。
日光東照宮に明智平の地名がある。南光坊天海が明智光秀との説がある。
その理由は簡単です。日光東照宮には明智光秀が祀られている。だったら明智平の地名が残っていても不思議じゃないです。
其れだけでは無いですよ。何と織田信長も豊臣秀吉も日光東照宮には祀られているのです。知らなかったでしょ。
日光東照宮は陰陽道や結界が張られています。それは南光坊天海の意向と考えて良いです。
でも、南光坊天海は天台宗の僧侶。家康は東照大権現と名付けられている。
これは仏教の僧侶の発案だけとはとは思えません。神道の知識が加わっている筈。
東照大権現ですが、東の天照大神の意味合いがあります。やはり神道の神の名を徳川家康に付けた。こんな真似は僧侶の天海だけに出来る訳がありません。
徳川家康は当然、人間です。人間は神にはなれない。それが神道の根本です。
しかし、家康は東照大権現なのです。権現、明神は仏教と神道の集合した神の位です。
どう言う事かと言うと、家康は薬学に通じていた。つまり家康は薬師如来の生まれ変わり。否、薬師如来が人間・家康として地上に降り立ったと、無理やりな解釈をしたと言えます。
豊臣秀吉も豊国大明神として祀られましたが、その神名にも苦心が見えます。
秀吉は母の大政所の腹に日輪が射して妊娠したとか言われてます。
これ、イエスキリストも同様ですが、神は産まれる前も神。人として生まれても神。亡くなっても神なのです。つまり父親がいては困る。
だから日輪が射して秀吉が生まれた。神・秀吉が大政所の腹に入った。つまり秀吉は太陽の子。だから神なのだ。そんな風に考えたと言えます。
さて、日光東照宮には織田信長、豊臣秀吉、明智光秀が祀られている。その理由は何か。
一番は彼らの祟りを恐れたからなのは間違いないでしょう。
この考え方、天台宗の南光坊天海では発想できません。これは神道の考え方なので。
言い方は悪いですが、神社は怨霊の封印装置的な役割も有しています。怨霊を神として祀り、鎮まり座していただく場所が神社の役割の一つなのです。
その知恵がある徳川家の家臣は誰がいるのか。
それは永井直勝でしょう。既に若い時分に討ち取った池田恒興の首を御神代として、屋敷の庭に池田神社を建立したのですから。
直勝は徳川家の知の象徴でもあります。書院番頭でもありましたし、細川幽斎から有職故実を学び徳川家の礼儀や幕府の式典を定めています。南光坊天海、林羅山と並ぶ知の重鎮だったと言えます。
そして永井直勝は日光東照宮の造営奉行に任命されている。つまり日光東照宮建設の現場監督をしていた。
直勝の実家は曹洞宗の寺であり、熊野権現の神社でもあります。直勝の父は僧侶であり宮司。そして大浜藩主。直勝も神道と仏教の知識があった。だから造営奉行を命じられた。
そして織田信長、豊臣秀吉、明智光秀を日光東照宮に祀ったのも永井直勝だと私は考えます。徳川幕府の安寧の為。彼らの祟りを防ぐ為にです。
ただ、日光東照宮には肝心の徳川家康の墓は無い。久能山東照宮に埋葬されている。つまり日光東照宮は家康の分霊を祀っている事となります。それは何故か。
それは日光東照宮には織田信長、豊臣秀吉、明智光秀の首、若しくはお骨がどこかに埋葬されている。
家康の遺体と信長、秀吉、光秀の首、若しくはお骨を同じ場所に埋葬するのは不味い。家康が恨まれてしまう。
そう考えて家康の遺体は久能山東照宮に埋葬されたと私は考えます。家康もそれを望んでいた筈です。恨まれていると思っていたでしょうからね。
長々と書いてきましたが以上です。
この説を立証するには、永井直勝の人生をしっかりと紹介しないと理解しても貰えないと考え、永井直勝に付いて長々と説明して来ました。
永井直勝は私の家系の宗家です。勿論、身贔屓の面はあります。「そうであっていればなぁー」との思いも私にはあります。
っとは言え絶対そうだとは主張はしません。
私はそう考えている。それだけです。妄信はしないでください。
ではでは。