諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

織田信長、豊臣秀吉、明智光秀の首が残っているとしたら、日光東照宮にあると思える。その12

2023年12月21日 11時19分01秒 | 永井直勝
続きます。

さて、豊臣秀吉が亡くなり関ヶ原の戦いが勃発。この戦い、世紀の凡戦でした。何せ東軍も西軍も下手こいちゃいましたから。

本来は徳川秀忠が東軍の大将だったのです。家康の後継者であることを証明する戦いだった。だから徳川の38000の主力軍を率いていたのです。

それなのに真田昌幸の策略に引っかかります。真田軍は2500。その人数で勝てる訳がない。完全に足止めするのが目的。それで関ヶ原の戦いには間に合わなかった。

本来なら東軍の勝利は確定していました。家康の裏切り工作は完璧でしたから。

それなのに主力の秀忠軍が来ていない。そりゃ小早川秀秋も裏切りを躊躇しますよ。

でも、石田三成もポカしていた。信頼できる15000の兵が細川幽斎が500の兵で籠っている丹後田辺城で足止めくらい、関ヶ原の戦いに間に合わなかった。

もし、その15000の兵が関ケ原に到着していたら、小早川も裏切らずに豊臣方として戦っていたかも知れない。どっちもポカしたギリギリの戦いだったと言えます。

秀忠軍に同行していた軍師は本多正信。もう歳だったのでしょう。若い時分の切れ味は無くなっていた。もう軍師としての寿命は尽きたと言えます。秀忠と一緒に真田昌幸に翻弄されたのですから。

こうなると徳川家の軍師は不在となります。だれが軍師の役に付いたのか。

政治面では南光坊天海が軍師格だと言えます。この南光坊天海は謎多き人物。どうして徳川家の重鎮になったのかも不明。ここにヒントが有ると私は思います。

南光坊天海を徳川家に迎え入れたのは誰なのか。天海が自分から雇ってくれと徳川家に出向いたとは考えにくい。徳川家の誰かが天海を誘った筈。その者は誰なのか。

南光坊天海の出身地は会津。当時の会津は福島県の大半と新潟県の一部、そして山形県の一部に跨っていた。日本の要地だったと言える。現に会津藩は徳川家が支配するようになる。

その会津の南光坊天海と接点の或る人物は誰が。それは出羽の国で修験者をしていた永田徳本だと私は思っています。天海も修験者だったみたいですし。

永田徳本は天海の才を知っていた。そこで甥の永井直勝に伝えて徳川家に召し抱えられたのではないのか。

林羅山のケースも永田徳本が絡んでいます。

林羅山は徳本に薬学を学びに来た。

林羅山の才に気が付いた徳本は、「薬学なんてどうでも良い。そなたの才を生かす場所は徳川家だ。甥の永井直勝に口を利いてやるから、徳川家に奉公せよ」と徳川家に仕官させています。

永田徳本は武田信虎・信玄の典医だった。その伝手で武田家とも関連が深い。そして甥は永井直勝。このルートが徳川家の発展に寄与したのは間違いないと思います。


続く。








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