諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

空腹も辛い。満腹も辛い。それ以上に掌の痛みが辛い。そして生きるのも辛い。

2023年12月26日 22時18分51秒 | 人生
私は本当に太りやすい。多分、ギャル曽根の10分の1も食べていないのに何で太るのだ。なるだけ食べないようにしているのにまた太ってきた。

食事は夜に集中して食べる。それが太りやすい原因なのは分かっている。だが、食べないと寝られない。空腹で寝られないのだ。

それで食べてしまう。次にやって来るのは罪悪感。そして鬱。

どうも糖分が鬱を誘発するらしい。炭水化物を食すると体内で糖分に代わる。その糖が鬱のエサになるみたいだ。

だからと言って炭水化物を抜くのは難しい。御飯、麺類、パン、全部炭水化物だ。それ以外は野菜と肉、魚、卵、大豆しかない。果物は糖分があるが、炭水化物よりは良いみたいだ。

何時も午後5時頃に最初の食事をする。空腹に耐えかねて。

でも、この時間帯に食べると夜の0時頃にも空腹感が襲ってくる。寝れない。

それでも床に就く。睡眠薬を飲んで横たわる。寝れない。睡眠薬の効果よりも空腹感が上回る。それでまた食べてしまう。

食べれば空腹感は収まるが鬱が深まる。腹周りに鬱が忍び寄る。腹から鬱になる。

それで抗鬱剤を飲む。毎日がこんな感じだ。

空腹も辛いが、満腹も辛い。こんな苦しみの連鎖でも最終的には沸点に到達する感じがする。

酒でも飲んでいたら人生なんてどうでも良くなって、自殺してしまう可能性は私にもある。

それでなくても左の掌の鈍い痛みで祟り神になりそうなのだ。精神が痛む左の掌に集中する。鈍くても消えない痛みは本当に辛い。仏教ではこんなのも修行となるのかなぁー。

こんなのが修行だとしたら、何のメリットがあるのか。死んでからあの世で立場が上になるのか。

仏教で悟りの境地に至っても痛みには耐えられないと思う。

釈迦だって痛みには耐えられないと思う。イエスだって十字架にかけられて神に恨み言を言ったのだ。誰だって痛みには負けるし、辛さを感じる筈だ。

生きることは辛さとの戦いだ。確かに生きることは修行なのかも知れない。修行が終われば楽になれる。

人生のゴールは死。死ぬ為に生き続けるのか。

毎年、クジラが群れで砂浜に打ち上げられる。理由は分からないみたいだが、あれは自殺では無いのか。

クジラやイルカの知能は高い。死の概念は分かっていると思う。

人間が満ち潮時にクジラを海に戻しても、また砂浜に向かう。あれは生きるのが辛いから死んで楽になろうとしているのではないか。

獲物を追って食べる。毎日、その繰り返し。そんな生き方に疑問を持った。飽きた。疲れた。苦しいと思った。だからクジラ達は集団で死を選ぶのではないか。生きるのが辛くなって。

うーん、分からない。生き続けて何の価値があるのだろう。

ってな事を考えて自殺してしまうのだろうなー、昔の小説家達は。

BIG FUN。

何か楽しみがあるから生きていけるのだと思うが、冷めた心は熱くなる事はあるのかなぁー。

昔の様にBIG FUNを感じられるようになれれば生き続けられる気がするが、どうなんだろうなぁー。

あっー、こんな事を考えるのは、私も歳を取ったと言う事なのだろう。来年は還暦だし。

あっー、歳は取りたくないなぁー。

あっー、人生は分からない方が良い。人生、先が見えたら、分かってしまったらお終いだなぁー。

もしかしたらこれが悟りの境地なのかも。

人生、悟ったらお終いだ。そこが仏教の疑問点だ。

うーん、支離滅裂になってきた。年末に何を考えているのだろうなぁー、私は。


ではでは。

コメント
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