諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

織田信長、豊臣秀吉、明智光秀の首が残っているとしたら、日光東照宮にあると思う。その6

2023年12月13日 09時55分52秒 | 永井直勝
続きます。

松平信康が自決後、永井直勝は出奔します。

そりゃそうです。主君がその父親の家康に殺された。私だったら気が狂います。そんな外道の徳川家には用はない。逆に家康の首を狙いたい程だったと思います。

出奔中は実家の大浜にもどって野山を駆け回り、狂ったように武術に励んでいた様です。しかも、伊賀者、甲賀者とも付き合いだした。

元々、太鼓捌きなど器用な方だったので剣術も大幅に向上したとの話があります。比類なき剣士に急成長した。2刀流だったそうです。

しかし、1年後、家康の小姓として迎えられています。本人は嫌だったみたいです。父の長田重元の強い説得に渋々応じたのでしょう。長田重元は家康の父である松平広忠に仕えていたのです。

諸説はあります。父としては直勝を引き続き徳川家に仕えさせたかったのでしよう。

でも直勝にとって家康は主君・信康の仇。命を捨てて討つ事も考えていた筈。

こんなケースは戦国時代稀です。親子ではありながら信康の小姓が家康の小姓になる。主君の仇の小姓になる。家康も命を狙われる可能性は考えていた筈。前代未聞です。

それでも直勝を小姓にしたのは、武田側に通じているからでしょう。

信長は武田家を滅ぼした。その武田家の残党を徳川家で取り込みたい。

武田の残党も信長や秀吉には下らない。家康だから下った。そのパイプ役を直勝は担ったと思われます。

そして本能寺の変。信長が討たれた。家康は逃げた。神君伊賀越えだ。

一般的な話しでは忍者出身??とされる服部半蔵が道案内をしたと伝わっているが、我々がイメージしている服部半蔵は同行していなかった。息子の二代目・服部半蔵が同行していたに過ぎない。この二代目は凡人だった。

私が思うに、神君伊賀越えを主導したのは永井直勝だっでしょう。その地に詳しいし、伊賀者・甲賀者共面識がある。

それにどう連絡を取ったのか、逃亡途中の入り江で直勝の父・長田重元が船を用意して待っていた。そのまま家康一行を自らの大浜の屋敷に匿っている。

神君伊賀越えは長田重元・永井直勝親子によって成功したと言える。

伊賀越えでは別行動をとった穴山梅雪は殺されている。そうなると武田家のパイプ役としては永井直勝の独壇場になったと推察されます。

家康は小牧長久手の戦いで豊臣秀吉と戦った。小牧長久手の戦いの大将は池田恒興だ。彼が主導した。秀吉は協力者的立場にあった。

勝敗は永井直勝が池田恒興を討って当初は有利だったが、家康が担いだ織田信雄が秀吉側に下ったので勝敗は決まった。豊臣の勝ちとなった。

家康は大分渋ったが、秀吉は妹・旭、そして母親の大政所を家康に人質として徳川に送り、家康は秀吉に臣下の礼を取るしかなかった。

大阪方との交渉役は石川数正が選ばれたが、徳川家での数正の立場は微妙になっていた。支えていた築山殿と松平信康は家康に殺されたからだ。

豊臣方に対しては人質として家康の子・秀康と共に、数正の息子も送られる事となった。

家康は長男の信康を殺している。次男・秀康の命も軽く見ている。何れ豊臣を裏切る魂胆が見えていた。そうなると何れは自分の息子も豊臣に殺される。それだけは避けたい。

それで石川数正は豊臣方に出奔したと私は考えています。忠義よりも息子を取った。これは家康への反論とも言えると思います。


続く。





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