続きです。
源頼朝を恨んでいるのは当然滅ぼされた平家です。平家の落ち武者伝説はそこらへんに転がっています。刺客となっている者もいたと思えます。中でも恨んでいたのは頼朝・義経兄弟の父親である源義朝を討った、長田忠致・景致親子ではないでしょうか。
私のブログを長く読んで頂いている奇特なお方はご存知かも知れませんが、この長田親子は私の家系に繋がります。正式には長田忠致の兄の家系の様です。
この長田親子は日本史上最低レベルの不忠義者と知られています。主君の源義朝を卑怯にも風呂場で討ち取ったのですから。
でも誤解があります。長田親子は源氏ではなく平家の血筋です。平将門公と同じ桓武平家です。源氏は主君ではないのです。そこが誤解されて伝わっています。
長田親子は義朝を討ったのに卑怯者として平家側に罵られた。源氏の頭領を討ったのに与えられた地位は壱岐守だった。「源氏の棟梁を討ったのだから美濃と尾張をくれてしかるべきだ」と言ったら平家に命を狙われるようになった。
そこに源頼朝が声をかけて来て、「家来になるのなら父の恨みは忘れよう。平家を討ち滅ぼした暁には希望通り美濃と尾張を与える」と確約した。そして平家は滅亡。頼朝は「今こそ美濃と尾張を与える」と長田親子を呼び出した。そこを捕らえて棒に手足を縛りつけ転がし棍棒で長田親子を殴り殺した。「これが本当の身の終わり」と言いながら。
何れまた長田忠敬の気持ちになって書きたいと思っていますが、この話は平家物語に拠るもので、多少はフィクションだと思います。諸説も御座います。真実とは断言出来ない。
しかし頼朝は長田親子に父・義朝を風呂場で殺されたのは事実の可能性が高い。恨んでいた。そして利用して殺した。そうなると長田親子の頼朝への恨みは半端じゃないですね。
その頼朝が橋の上で落馬して川に落ちて溺死した(諸説あり)。糖尿病で低血糖に成ったとか言われていますが、おかしいですよね。大勢で渡っていたでしょうから助けられた筈ですので。
私は暗殺説が濃厚だと思っています。そして殺したのは頼朝に代わって鎌倉幕府の執権となった舅の北条時政が一番怪しい。
ここまでするのかと思いますけど、頼朝と北条政子との二人の息子・頼家、実朝は北条氏によって暗殺されています。なんとしても北条氏が鎌倉幕府の実権を握ると言う意思が感じられます。
何故、北条氏はそこまで頑なだったのか。北条氏は伊豆に追いやられましたが、長田親子同様、桓武平氏の家系です。平清盛は平家の主流も主流でしたが、桓武平氏としては平将門公同様、関東で覇を唱えたい。だから一旦は源氏の味方に付いて平清盛の血筋を途絶えさせ、今度は血の繋がっている源頼家・実朝まで暗殺し、北条氏が実権を握ったのではないでしょうか。
母方の血だけではダメ。完全に北条氏の血で関東を平定する。これは呪いにも似た考えだと思います。どうしても平将門公の意思を感じます。
その後歴史は流れて源氏の足利幕府、平家の織田信長、源氏の明智光秀、足利家の養子に成ろうとした豊臣秀吉、そして源氏の血筋を主張する徳川家康へと繋がっていきます。源平合戦はずっーと続いていたのです。
平家・織田信長の命により、源氏・徳川家康の長男・信康が自害していますが、信康の側近に長田忠敬の血筋である長田伝八郎直勝がいました。
後に家康の側近になりますが源氏の統領を討った長田姓は縁起が悪いとして鎌倉の大江広元の家系に入り永井姓を名乗るようになりますが、大江広元も桓武平氏の流れ。そして毛利氏を生んでいます。
家康が関ヶ原の戦いで中立を守った毛利輝元との密約を反故して、石高を120万石から37万石に減らされたのも家康の平家憎しの表れが見えますが、幕末に毛利の長州藩によって徳川幕府が終わらされたのも源平の戦いだったような気がします。
徳川家の平家である永井氏は毛利と親戚になりますので頻繁に婚姻関係を結び、毛利家と徳川家との関係の修復をしたようですが、270年続いたのは頑張った方だと思います。無駄には終わりましたが。
以上、少々脱線しましたが、平将門公からの呪いを心霊的ではなく人為的によるものとして語ってみました。
でも人の恨みがここまで長期に渡って続くものなのでしょうか。祖先の恨みを晴らさで置くべきかと思うものなのでしょうか。親の仇、子の仇なら判るのですが、何故何代にも渡って続くのか。
これ、やっぱり心霊的な意思が何時までも消えず子孫を突き動かしているとどうしても思っちゃいます。
因果ってものはそう簡単に消えるものではない。どうしてもそう思っちゃいますね。
ではでは。