諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

東日本大震災から12年。地震と津波を神道で考えてみた。その5

2023年03月16日 14時26分33秒 | 東日本大震災
続きます。

話を志波彦神に戻します。実は志波彦神に対して志波姫神が存在します。しかし、志波彦神と志波姫神は一緒には祀られていない。それが不思議です。

宮城県には複数の志波姫神社が存在するのですが、祭神は木花咲耶姫として祀られる社もあり、アメノウヅメ命と鹿島神である建御雷之男命を一緒に祀っている社もある。この点が志波彦神、更には阿須波神を紐解くヒントが隠されていると思います。

実は現在は変更になっているのですが、アメノウヅメ命を祀る志波姫神社にはアメノウヅメ命(猿田彦尊)と記載されていたのです。

アメノウヅメ命と猿田彦尊は一度も一緒に暮らしてはいませんが、夫婦神とみなされています。

通常は夫が天津神で妻が国津神のケースが大半なのですが、このケースは逆です。アメノウヅメ命が天津神で猿田彦尊は国津神となります。

この辺は朝廷都合の虚実と考えて良いと思います。私はアメノウヅメ命も国津神である。そして天津神の象徴的存在である天照大神も本来は国津神であると考えています。この話はまたの機会に致したいと思います。

猿田彦尊。塩竃神社の伝承では塩土老翁は猿田彦尊。更にはその子孫の太田命であると伝えられています。

そして本来の塩竃神社だと私は考えているのですが、塩土老翁が塩竃で塩を造ったとそれる花淵浜の鼻節神社にも猿田彦尊が祀られている。

しかし、一時的にですが鼻節神社には花の方の木花咲耶姫が祀られていた時期もある。

木花咲耶姫は大山津見神の娘です。国津神です。猿田彦神と木花咲耶姫との関連は共に国津神と言うだけ。木花咲耶姫が猿田彦尊の妻であるアマノウヅメ命だとは流石に思えませんが、共通点はあります。性器信仰です。

アマノウヅメ命は、天照大神が身を隠した天の岩戸の前で性器を露わにして踊った。

木花咲耶姫は自分の子が天津神である瓊瓊杵尊との子である証明として、屋敷に火を付けて三人の子を出産した。共に性器が関わっています。

そして猿田彦尊は道祖神であるとされる。道祖神は男女の睦まじい姿で現している場合もあるが、もろに性器で表してもいる。猿田彦尊の長い鼻も男性器を表している。

縄文時代から続く日本の神道の根本には性器信仰が存在します。そこに鬼渡神である阿須波神がどう関わるのか。


続く。


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東日本大震災から12年。地震と津波を神道で考えてみた。その4

2023年03月15日 14時33分44秒 | 東日本大震災
続きです。

志波彦神が阿須波神である理由はもう一つあります。

鬼渡神社は福島県、特に会津地方に集中しますが、阿須波神とペアで祀られている神が存在します。波比岐神です。

塩竃神社に隣接する志波彦神が阿須波神であるなら、波比岐神も一緒に祀られているのではないか。

志波彦神社には波比岐神は祀られていませんが、波比岐神と同神と思われる神が存在します。荒脛巾神です。

実は塩竃神社境外末社として多賀城に荒脛巾神社が存在しています。

祭神は塩竃神社同様、塩土老翁ですが、もう一人神が祀られています。塩土老女です。その名から塩土老翁と塩土老女は夫婦の神で間違いないでしょう。

塩竃神社境外末社なので塩竃神社が管理している筈ですが、何故、荒脛巾神社に塩土老翁・塩土老女が祀られているのかは不明ですが、これも伊達綱村の研究チームがそのように考えて祀ったと思えます。

勿論、私は半分は間違っていると思いますが。

荒脛巾神社なのです。祀られているのは荒脛巾神の筈です。だったら、塩土老翁・塩土老女の夫婦神が荒脛巾神であるのか。

鬼渡神で考えれば荒脛巾神は阿須波神・波比岐神であると断言出来ます。

福井県の一之宮である足羽神社には坐摩五座神である阿須波神、波比岐神。そして御井神である生井神、福井神、そして綱長井神を祀っていますが、足羽神社の「足羽」は「阿須波神」を示しているのは間違いない筈です。

阿須波神は旅立ちの神。そして荒脛巾神もその名から旅立ちの神であります。脛巾とは旅や作業の為に、紐で結んで歩きやすくするアイテムです。

そして荒脛巾神社には多くの草鞋が奉納されています。草鞋もまた旅立ちのアイテム。その点から荒脛巾神は阿須波神と同神。少なくても同質の神なのは間違いないでしょう。

そして波比岐神(ハヒキカミ)と荒脛巾神(ハラハバキカミ)。発音が似ているでしょ。

伊勢神宮に波比岐神と同神とされる屋乃波比岐神が内宮の門番的に祀られています。神庭守護の神とされています。つまり伊勢神宮全体を守護する神です。

それなのに屋乃波比岐神を祀る社には立ち入り禁止です。理由は不明。伊勢神宮側も語っていません。

何故、人の立ち入りを禁じているのか。それは伊勢神宮全体を守護しているのですから門番の神と言える。悪意のある不敬者には祟りを及ぼす。それだけ恐れられている神だからだと思えます。


続く。



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東日本大震災から12年。地震と津波を神道で考えてみた。その3

2023年03月13日 14時42分54秒 | 東日本大震災
続きです。

塩竃神社の祭祀料は古来、1万束でした。米一万束と言う事です。石高と言えば分かりますが、昔は米がお金替わりでした。

この一万束の祭祀料は日本の神社では断トツトップです。伊勢神宮、出雲大社でさえ、二千~三千の祭祀料です。

塩竃神社の根宜さんは「昔はそれだけ豊かな土地だった」とは言ってますが、それだけ人々から信仰を集めていた神社だったのです。

それなのにです。それなのに祀られている神が誰なのか忘れ去られてしまった。

それで仙台伊達家四代の伊達綱村は研究チームを発足。塩竃神社の主祭神を塩土老翁。配神を鹿島神、香取神と定めました。1700年代後半の話です。

折角の伊達綱村が発足した研究チームですが、明治時代に古文書が出て来た。塩竃神社の主祭神が塩土老翁であるのは間違いだった。

古文書によると一森山に鎮座されていたモレ一族の蝦夷が信仰していた神は志波彦神であった。その社は岩切に打ち捨てられていた。現在の八坂神社の境内社となっていた。

それで当時の塩竃神社の宮司は「天下の一大事」として明治天皇に直訴。それで志波彦神の社は一森山に新しく建立されることになりました。

因みに一森山はモレこと盛多賀嶋の「盛(もり)」から来ていると考えられます。

話を鹿島神・香取神に戻します。

鹿島神宮や香取神宮では本来の地主神である鬼渡神・阿須波神を地震を引き起こす鯰として要石で抑え込んでいる。

それだけではない。武神である鹿島神・建御雷之男神と香取神・経津主命に怨霊として押さえつけられている。阿須波神は怨霊として武神に両脇を抱えられている状態だと言える。

塩竃神社ではどうか。岩切に打ち捨てられた訳ですが、現在は八坂神社の境内社として冠川神社に志波彦神が鎮座していますが、やはり怨霊と捉えられ、乱暴者の素戔嗚尊に調伏されていたと言えます。それだけ志波彦神は恐れられていたのです。

何故、阿須波神が志波彦神なのか。

その説を唱えたのは大日本地名辞典をの著者である吉田東伍です。その理由については私も知りません。しかし、想像は付きます。

塩竃神社なのです。塩竃は塩を生産する為の釜なのです。だったら祭神は釜神に決まっています。伊達綱村の研究チームは塩土老翁の「塩」の字から塩土老翁を塩竃神社の主祭神としたのだと思いますが、それはちょっと安易な考えだと思います。

釜神は大歳神と天知迦流美豆姫との子、興津彦命・興津姫命であります。

大歳神と天知迦流美豆神の子には10神存在しますが、その中に阿須波神が存在します。

神々の兄弟は同神の性質を持っています。鬼渡神は庭神でもありますが、阿須波神の10兄弟の中には、庭高津日神、庭津日神が存在します。

古史伝によるとこの二神は興津彦命・興津姫命と同神と書かれていますが、阿須波神も鬼渡神社に祀られていることから、釜神であることは十分考えられると思います。


続く。







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東日本大震災から12年。地震と津波を神道で考えてみた。その2

2023年03月12日 15時00分57秒 | 東日本大震災
続きです。

蝦夷討伐は蝦夷と蝦夷の戦いだった。っと言う事は日高見国の荒蝦夷達の神も鬼渡神である阿須波神なのか。

その通りです。

塩竃神社の正式名称は「志波彦神社・塩竃神社」となります。神社の社格では塩竃神社よりも隣接している志波彦神社の方が上なのです。この志波彦神社に祀られている志波彦神こそが鬼渡神・阿須波神です。

私の記憶が正しければ塩竃神社側は志波彦神に付いて、塩土老翁、鹿島神、香取神と共に国造りを手伝った神として祀られているとしています。

この話、半分嘘です。

志波彦神社・塩竃神社はは塩釜市の一森山に鎮座しています。この一森山ですが、この周辺の蝦夷の長である盛多賀嶋から取っていると考えられています。一般的にはアテルイの副官的に例えられているモレの事です。

この一森山はモレの一族の信仰の山だった。自分達蝦夷の神を祀っていた。

しかし、モレの一族である荒蝦夷は敗れた。

以前は10万人を超える朝廷軍に対し、4000人程度の荒蝦夷がゲリラ戦を繰り広げ荒蝦夷優位に進んでいたが、中国系の坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命されてから事態は一変した。

戦国時代、兵士を職業として確立したのは織田信長である。それ以前は半農半兵士で、戦いは農閑期のみ行われていた。

坂上田村麻呂は織田信長よりも早く職業兵士制を確立した。荒蝦夷軍は農業を捨てられない。食料が無くなる。収穫期は戦えない。

しかも以前は兵士と兵士の戦いだった。だが、坂上田村麻呂は荒蝦夷の非戦闘員をも殺しまくった。それで荒蝦夷は戦いを放棄した。

朝廷軍は坂上田村麻呂を英雄視し神格化した。アテルイ・モレに500人の荒蝦夷が投降し、命を助けるように朝廷側に働きかけたと言われているが、それだったら最初から女子供年寄りまで殺さない。初めからアテルイ・モレらを殺すつもりだった。大嘘を付いて投降させたのだ。

その証拠に荒蝦夷の戦いは再開された。アテルイの子孫らは戦いを続けた。そこからも坂上田村麻呂はアテルイ・モレらを騙したことが想像できる。

話を一森山に戻します。

一森山にはモレの一族、荒蝦夷が信仰していた神が祀られていた。しかし、荒蝦夷は敗れた。

モレの一族が信仰していた神を祀る社は打ち捨てられた。それ以来、蝦夷の神は忘れ去られた。


続く。




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東日本大震災から12年。地震と津波を神道で考えてみた。その1

2023年03月11日 06時33分30秒 | 東日本大震災
一応、ブログ名に鬼渡神を掲げています。この鬼渡神は死と生との境界線の神。疱瘡神。旅立ちの神(死出への旅も含む)。そして地震と津波の神でもあります。

縄文時代、一番多くの縄文人が暮らしていた場所はどこか。

それは香取神宮のある千葉県の海寄り、鹿島神宮のある茨城県の海寄り。

次に私が住んでいる仙台市と塩釜神社がある塩釜市、多賀城市。

そして最後に本州の北端である青森県弘前市の周辺だと言えます。

私、スピリチュアル関連は好きではないのですが、千葉・茨城、仙台・多賀城・塩釜、そして弘前は一直線で結ばれています。レイラインと言うヤツです。

何故、この3地域が一直線で結ばれているのか。

それは縄文時代からこれら3地域は縄文人が行き来していたからだと言えます。海岸沿いで山も少なかったのも原因でしょう。

この3地域で共通している点とは何か。

それは日本でも地震が多いという事。そして津波も襲っていると言う事です。

実は香取神宮、鹿島神宮、そして塩竃神社は地震と津波を抑える為に建立されていると私は考えています。この3社の地主神は鬼渡神ですので。

鹿島神宮に祀られている建御雷之男神と香取神宮に祀られている経津主は同神だとされていますが、少なくても二神とも武神なのは間違いないです。

そして塩竃神社にも塩土老翁と共に鹿島神と香取神が祀られている。それはどう言う訳か。

香取神宮、鹿島神宮には要石が存在しています。この要石で地震を起こす鯰を抑え込んでいると言われています。この鯰とは一体何者なのか。

それは鬼渡神の代表的な神・阿須波神でしよう。

阿須波神は蝦夷の神。朝廷側からすれば敵視する神、畏怖すべき神です。

今までも言い続けていますが、「怨霊には武神・仏教、乱暴者(素戔嗚尊)」の考えがあります。

鹿島でも香取でもそして塩竃でも鬼渡神は地主神であるにも関わらず、天津神での武神である鹿島神・建御雷之男神、香取神・経津神により調伏されている。

地震を起こす鯰に落とされ、出て来れないように要石で抑え付けられている。それほど朝廷は鬼渡神である阿須波神を恐れている。

鹿島には「鹿島立ち」と言う言葉が残されています。「鹿島立ち」は一般的には旅立ちを意味します。

しかし、本来は戦に向かう防人たちが、鹿島神宮に祀られている阿須波神に旅の安全を祈願していた。そこから「鹿島立ち」と言う言葉が生まれています。

しかし、鹿島神宮には現在、阿須波神は祀られていない。それは何故か。

それは阿須波神は蝦夷の神だからです。鹿島も香取も蝦夷の地だからです。蝦夷の神への信仰は自分たちの立場を危うくする。消すしかありません。

蝦夷は縄文から続く古からの日本人です。そして朝廷側は大陸から渡って来た者の血が濃い。そして朝廷側は血を嫌う。自らは血を流さない。

だから戦は蝦夷にやらせる。東北である日高見国の蝦夷討伐は、先に朝廷に服従した鹿島と香取の蝦夷達に行わせた。

早くに朝廷に服した鹿島・香取の蝦夷は熟蝦夷(にぎえみし)。仙台・塩釜から東北の最後まで戦った蝦夷は荒蝦夷(あらえみし)と言われてます。日高見国の蝦夷討伐は荒蝦夷と熟蝦夷との戦いだったのです。


続く。











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