9月12日最高裁第二小法廷において、気になる判決が下された。
宗教法人の行うペットの葬祭業が、税法上の非課税事業か、それとも収益事業かを争う名古屋高裁の控訴審で、原告(宗教法人側)の敗訴を受けての、最高裁への上告であった。
宗教法人側は、ペットの葬祭を人間同様に宗教的意義があり、宗教活動の一環であるとして、非課税事業であると主張した模様だ。
一方、国(国税局)側では、ペットの葬祭は、一般の事業者の行うものと大差が無く、役務提供の対価として法人税法上の課税が相当であると主張して、課税処分を行っている。
津野修最高裁裁判長は、この宗教法人の葬祭事業について、一般の事業者の行うもの(当然に収益事業として課税)との対比や、ペット葬祭業の内容を吟味して、役務提供の対価と考え、収益事業だと判断したようだ。
報じられた記事を読みつつ、複雑な気分に陥った。
ペットは家族だと考える人は多いと思う。大事な家族の一員であるペットの死を悼み、葬儀をあげる人はけっこう多いと思う。率直に言って、ペットの葬儀には宗教的意味合いはあるように思える。
かれこれ30年以上、犬を飼うことを諦めているが、いつかは犬を飼いたいと願っている。もし、その犬が死んだら、当然に弔ってやりたいと思うだろう。これを宗教行事と言わずして何と呼ぶ。
その一方で、ペットの葬儀事業を行う一般の事業者と、宗教法人を分け隔てすることもオカシイと思う。ペットの葬儀事業で生じる利益について、一般の事業者が課税され、宗教法人が非課税であることもオカシイといわざる得ない。
そもそも犬に限らず、ペットに人間の宗教行為を押し付けることも、いささか不遜な気もする。多分、宗教は人間様のものであって、ペットのためではあるまい。
野生のアフリカゾウが、死んだ仲間のゾウの骨の残骸を、その長い鼻で優しくなでているシーンを観た事がある。多分、あれがゾウにとっての弔いの行為なのだろう。ある程度の知能の高さが認められる動物には、仲間の死を悼むと思われる行動があることが知られている。動物には動物のやりかたがあり、人間のそれとは同じである必要はない。
つまるところ、宗教的行為とは何かまで突き詰めないといけない気もするが、最高裁はその点を避けたようだ。ある意味、非常に行政追随型な判断でもある。ただ、完全には納得しえない。やはり割り切れない。
近いうちに裁判員制度が施行される。誰もが裁判に関る日が、間近に迫っている。間違いなく、多くの混乱と失態が繰り広げられると思う。されど、敢えてやってみるべきだとも考えている。
お茶の間の評論家としてではなく、当事者として問題に直面して、正しき結論を出す難しさを誰もが一度は知るべきだと思うからだ。
法律に基づく社会にあっては、常に法が現実に置き去りにされる危険性を認識する必要がある。時代の変化に合わせて、社会のありようは必ず変化する。文書化された法律は、その変化に必ずしも対応できるわけではない。その矛盾を明らかにする場が裁判だと私は考えています。
裁判の場にあっては、法による公正な判断が求められるのは当然ですが、法が完璧なものでなく、必ず現実との差異が生じることを思えば、そのずれを補填するのは、その時代に合った常識であるはず。
現在の日本の司法試験は、あまりに高度に複雑化していて、受験に専念しなければ合格は不可能に近い。しかも、その期間は数年間に及ぶ。私からみると、社会常識を十分に身に付けることなく、受験の世界に閉じこもり、その後にいきなり司法の場に立つ裁判官らの非常識、不見識ぶりが近年目に付くのです。
司法知識が十分あるからといって、社会に合った常識や見識があるわけではない。私から見ると、裁判官ら司法関係者は現状(現行の法制度)を正しいと規定し過ぎる。常に変化する社会に適合しているとは言いかねる法制度の矛盾に目をつぶり勝ちに思えて仕方ない。
その意味で司法制度に素人である一般市民の司法参加は、価値有るように思える。高度な司法知識を持つものだけが納得するような裁判は、法治国家にとって決して良いものではない。普通の常識を持っているはずの一般市民が納得できるような司法であって欲しいのです。
おそらく裁判員制度は司法の場に混乱を巻き起こすでしょう。それでも試す価値はある。どうせ完璧ならざる人間のすることです。必ずミスを犯すのが人間である以上、そのミスを直す努力は必要です。司法の場において、かなり非常識がまかり通る現実を、一般市民に分らせるだけでも、試してみる価値はあると思います。
宗教法人の行うペットの葬祭業が、税法上の非課税事業か、それとも収益事業かを争う名古屋高裁の控訴審で、原告(宗教法人側)の敗訴を受けての、最高裁への上告であった。
宗教法人側は、ペットの葬祭を人間同様に宗教的意義があり、宗教活動の一環であるとして、非課税事業であると主張した模様だ。
一方、国(国税局)側では、ペットの葬祭は、一般の事業者の行うものと大差が無く、役務提供の対価として法人税法上の課税が相当であると主張して、課税処分を行っている。
津野修最高裁裁判長は、この宗教法人の葬祭事業について、一般の事業者の行うもの(当然に収益事業として課税)との対比や、ペット葬祭業の内容を吟味して、役務提供の対価と考え、収益事業だと判断したようだ。
報じられた記事を読みつつ、複雑な気分に陥った。
ペットは家族だと考える人は多いと思う。大事な家族の一員であるペットの死を悼み、葬儀をあげる人はけっこう多いと思う。率直に言って、ペットの葬儀には宗教的意味合いはあるように思える。
かれこれ30年以上、犬を飼うことを諦めているが、いつかは犬を飼いたいと願っている。もし、その犬が死んだら、当然に弔ってやりたいと思うだろう。これを宗教行事と言わずして何と呼ぶ。
その一方で、ペットの葬儀事業を行う一般の事業者と、宗教法人を分け隔てすることもオカシイと思う。ペットの葬儀事業で生じる利益について、一般の事業者が課税され、宗教法人が非課税であることもオカシイといわざる得ない。
そもそも犬に限らず、ペットに人間の宗教行為を押し付けることも、いささか不遜な気もする。多分、宗教は人間様のものであって、ペットのためではあるまい。
野生のアフリカゾウが、死んだ仲間のゾウの骨の残骸を、その長い鼻で優しくなでているシーンを観た事がある。多分、あれがゾウにとっての弔いの行為なのだろう。ある程度の知能の高さが認められる動物には、仲間の死を悼むと思われる行動があることが知られている。動物には動物のやりかたがあり、人間のそれとは同じである必要はない。
つまるところ、宗教的行為とは何かまで突き詰めないといけない気もするが、最高裁はその点を避けたようだ。ある意味、非常に行政追随型な判断でもある。ただ、完全には納得しえない。やはり割り切れない。
近いうちに裁判員制度が施行される。誰もが裁判に関る日が、間近に迫っている。間違いなく、多くの混乱と失態が繰り広げられると思う。されど、敢えてやってみるべきだとも考えている。
お茶の間の評論家としてではなく、当事者として問題に直面して、正しき結論を出す難しさを誰もが一度は知るべきだと思うからだ。
法律に基づく社会にあっては、常に法が現実に置き去りにされる危険性を認識する必要がある。時代の変化に合わせて、社会のありようは必ず変化する。文書化された法律は、その変化に必ずしも対応できるわけではない。その矛盾を明らかにする場が裁判だと私は考えています。
裁判の場にあっては、法による公正な判断が求められるのは当然ですが、法が完璧なものでなく、必ず現実との差異が生じることを思えば、そのずれを補填するのは、その時代に合った常識であるはず。
現在の日本の司法試験は、あまりに高度に複雑化していて、受験に専念しなければ合格は不可能に近い。しかも、その期間は数年間に及ぶ。私からみると、社会常識を十分に身に付けることなく、受験の世界に閉じこもり、その後にいきなり司法の場に立つ裁判官らの非常識、不見識ぶりが近年目に付くのです。
司法知識が十分あるからといって、社会に合った常識や見識があるわけではない。私から見ると、裁判官ら司法関係者は現状(現行の法制度)を正しいと規定し過ぎる。常に変化する社会に適合しているとは言いかねる法制度の矛盾に目をつぶり勝ちに思えて仕方ない。
その意味で司法制度に素人である一般市民の司法参加は、価値有るように思える。高度な司法知識を持つものだけが納得するような裁判は、法治国家にとって決して良いものではない。普通の常識を持っているはずの一般市民が納得できるような司法であって欲しいのです。
おそらく裁判員制度は司法の場に混乱を巻き起こすでしょう。それでも試す価値はある。どうせ完璧ならざる人間のすることです。必ずミスを犯すのが人間である以上、そのミスを直す努力は必要です。司法の場において、かなり非常識がまかり通る現実を、一般市民に分らせるだけでも、試してみる価値はあると思います。