異なる言語による意思疎通は難しい。
単に言葉が違うというだけではなく、言葉を生み出した土壌である文化の違いが背景にあるからだ。この文化の違いを分るためには、各々の文化についての深い教養を必要とする。
その文化についての教養を深めようと思えば、相当な量の読書と思索が必要となる。文撃セけでなく、スポーツや武道、産業、教育などの幅広い見識が求められる。
文章を翻訳するだけなら、調べる時間もある。しかし、言葉を通訳するとなると、即時性が求められるため、とっさの思考力と洞察力までもが求められる。
ちょっと考えただけでも、相当な困難が待ち受けていることが分る。この難しさを分る人と、分らない人がいるから頭が痛い。
いわゆる帰国子女には、相当な格差がある。なかでも留学というよりも遊楽と評した方が相応しい帰国子女には頭が痛い。当人は自分が外国語が出来ると思い込んでいる。翻訳はもちろん、通訳の難しささえも、気軽に考えているから始末に負えない。
いくら発音が良くても、話す内容がお粗末ならば話にならない。母国である日本のことさえ満足に知らない以上、それを外国語で説明することが出来ないのは当然。ところが当人の教養レベルが低いため、そのこと事態自覚できない。
では、高学歴なら大丈夫か?
そうとも言い切れないのが、悩ましいところだ。まして、政治会談など社会的に影響が大きい立場の人たちが、外国人との交渉の場での過ちは、悩ましいでは済まされない。
表題の本でも取り上げられているが、佐藤栄作首相が日米繊維交渉の際に、アメリカ大統領に対して腹芸による対談を求めたケースなど、その典型であろう。
たとえ文化が異なろうと、合い共通する意思の疎通は不可能ではない。しかし、具体的な問題解決のための政治交渉の場で腹芸はないだろう。いくら通訳の人が才知を尽くしても、これでは誤解が生じるのも無理はない。
ちなみに佐藤栄作本人は、高学歴エリートの筆頭ともいっていい。決して本人の知的レベルは低くはない。しかし、所詮国内でしか通用しないエリート。
国内政治ならば、腹芸による政治折衝は普通なのだろうが、それをアメリカ人に求めるところが情けない。腹芸が通じなかった結果、ニクソン大統領の敵意を買い、結果的にニクソン・ショックと呼ばれる外交的失敗を招いたのだから、責任は重大である。
表題の本は、他にも通訳と翻訳の違い。意図的な誤訳や、悪意なき誤訳を取り上げており、なかなかに興味深い。単に誤訳とは言い切れない難しさについても触れてあり、私のような翻訳ものが好きな人間には、いろいろと考えさせられることが多かった。
ただ、著者が翻訳や通訳のプロであるため、誤訳が生じる原因についての追求が甘い。とりわけ軍事用語や、戦争関連の翻訳についての誤訳が、なぜ生じるのか。その背景を避けて記述している観があり、そこに物足りなさが残る。
明言は避けているが、これこそ意図的な誤訳ならぬ、省略ではないかな。まあ、著者本人は、あくまで通訳のプロとしての意見に留めたいようなのですが、その点に不満が残りましたね。