ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

温泉が好きなの?

2013-02-08 08:44:00 | 日記
口が堅いことが条件だ。

そう教えてくれたのが、ホテルの支配人だった。私は高校を卒業して一年の浪人の後に大学に入学し、無事卒業したわけだが、その間5年余りを渋谷の某ホテルの駐車場でアルバイトをして過ごした。

アルバイトと云えどもホテルの従業員であり、口が堅いことは当然の義務であった。だがホテルというところは人間社会の縮図的な一面があり、噂話が出回るのも早い。

だって皆、噂話が大好きなのだ。ただ、さすがに相手を選ぶ。同じホテルマン同士だと、互いに守秘義務があると分かっているせいか、むしろ噂が過剰に飛び回るように思う。

ホテルの地下には従業員用の休憩室があり、私はそこでお湯をもらってカップラーメンを食べることがあった。その日も3分間待つのだゾとカップラーメンを前に我慢のひと時を過ごしてた。

すると顔なじみのフロアスタッフのGさんが見慣れぬ顔の同僚を連れてきて同席してきた。Gさんは彼に私を紹介してから、「こいつ、俺の同期で、系列のIホテルからの都落ちしてきたのさ」と教えてくれた。

都落ちと言われたBさんは、「都落ちはひでえな、一応出向なんだけどよ」と笑顔で応じている。系列ホテルでもIホテルはかなり格上なので、都落ちも分からないでもない。

私は黙ってラーメンをすすりながら二人の会話を聴いていた。

Gさんが「しかし、まァ、よく出向を認めてくれたよな」と云うと、Bさんは「だって毎晩俺だけだぜ、我慢できなくてさ。」

なんの話だろう?私が訝しげな表情でいたのでGさんが解説してくれた。

なんと、Bさんは毎回夜勤のたびに同じ幽霊を見るので、それが嫌で転勤を申し出ての出向だそうだ。ホテルの従業員は、わりとお化けの話に慣れているので、Gさんは当たり前のように話すが、お化けに縁のない私はつい「お化け・・・ですか」と不思議そうに答えてしまった。

たぶん、Bさん話したかったのだろう。私に事情を話してくれた。

Iホテルは某観光地の温泉ホテルであり、かなり人気がある。そこの浴場がある棟のスタッフだったBさんは、ある日宴会場の係りを任された。なんでも還暦のお祝いのパーティで、主役の老人とその家族や友人たちが集まって盛大なものであった。

主役の老人は赤いちゃんちゃんこを着せられて終始上機嫌。宴会場係りとしては楽な仕事だったよと、ちょっと懐かしげな表情でBさんは話す。ただ、問題はその後のことだ。

これは温泉に限らないが、どこの入浴施設でも泥酔状態での入浴は禁じている。宴会などが多い週末は、酔ったお客さんが風呂に入ることが多く、そのホテルではスタッフがお風呂を巡回するシステムになっていた。

深夜の巡回をしていたBさんは、露天風呂のそばの脱衣所で注ラ工の椅子に座っている老人に気が付いた。浴衣の上に赤いちゃんちゃんこを着ていたので、昨夜の宴会の主役の老人だと分かった。

どうもほろ酔い加減で、気持ち良さ下に笑みを浮かべて「ここは景色がいいねぇ」と話しかけてきた。少し会話に応じ、その際「お酒を飲んで入浴してはダメですよ」と云うと、その老人「大丈夫、大丈夫。でも、ここで転んだら笑いものだから入らないよ。」と笑顔で返事して部屋に戻っていったことは今も忘れずに覚えている。

だが翌朝、警備員が露天風呂を覗くと、そこには湯に浮かんでいる老人の姿があった。あわてて救助するもすでにこと切れていた。

家族の方に聴くと、深夜に部屋に戻って一眠りした後、明け方にもう一度風呂に入ってくるといったきり、戻ってこなかったらしい。死因は心不全であり、別段事件性のある死亡ではないと判断された。

一応聴取は受けたが、Bさんに瑕疵はなく、特段ホテルの支配人から問題視されることもなく又家族からの苦情もなかった。ただBさん自身は、最後に声をかけたホテル関係者として、いささか責任を感じてはいた。だから風呂の巡回には、より一層注意を払うように心がけていたそうだ。

その事件から一月が経過した夜のことだ。いつものように風呂を巡回して、鍵を閉めようとするとき、露天風呂のほうに赤い人影を見かけたのが最初だった。まだ入浴客がいたのかと驚き、あわてて露天風呂に行くも人影は消えていた。その時は勘違いだと思ったが、あの赤いちゃんちゃんこの老人を思い出したのは仕方ない。

その後も、Bさんが巡回する深夜には、必ずといって良いほどお風呂に赤い人影を見ることが続いた。さすがに不気味に思い、同僚や警備員に同行を頼むと、その時はまったく見かけない。Bさんが一人の時に限って、あの赤い人影が現れるようなのだ。もちろん、他のホテルスタッフは誰一人そんな人影はみていない。

でもBさんには、その赤い人影が見えてしまい、いささかノイローゼ気味になってしまった。そこで上司に事情を説明して転勤願いを出したところ、この渋谷の系列ホテルへの出向となったそうだ。

Bさんは「別に悪さをされたわけでもないのだけど、俺だけしか見えないのが嫌でねぇ」と複雑そうな表情を浮かべて苦笑いしていた。わたしが、このホテルは露天風呂はないから大丈夫なのでしょ、と言うと、にっこり頷いてくれた。その幽霊、露天風呂が好きなのだろうか。

傍で聞いていたGさんは、「この業界分からないこと、けっこうあるよな」としみじみ言うので、一応頷いておいた。ここでお化けを否定するほど分からず屋ではない。

あれから30年たった。なんで、この話を思い出したのかと云えば、先日の大雪の夜のことだ。

大雪で中央高速は走れず、一般道は大渋滞なので止む無く24時間営業のスパで仮眠することにした。そのスパは露天風呂が綺麗なので、以前から何度か入浴している。その夜は大雪のせいで、露天風呂は雪景色であり、寒いが心地よい入浴を味わえた。

風呂を上がり、休憩室で同行者と待ち合わせて冷たいジュースを飲んでいたら、妙なことを言い出した。

「このスパ、赤色の室内着なんてあったっけ?」

え、男は水色で、女性は黄色でしょと答えると、「露天風呂の脇の渡り廊下のベンチで、赤い室内着を来た人影をみた。でも近づくと誰もいなかっただよね。なんだろう?」

見間違いではないかと思ったが、それは言わずにそろそろ寝ておこうぜと言ってその場を後にした。仮眠室で横になっている時に思い出したのが、あの30年前のバイト先での会話だった。

なんか無性に気になったので、お風呂が再開(深夜は聡怩ナ閉鎖)した明け方に、もう一度露天風呂に一人でいってみた。痛いほどに冷たい空気と、温かい露天風呂の組み合わせは、気分をさっぱりさせる。良い気持ちで風呂を出て着替え、まだ薄暗い露天風呂をみてみたが何もない。

当然だよな、と思いつつ、ふと渡り廊下の奥に目をやると人影がある。あれ、あそこ立ち入り禁止の場所だよな。赤い室内着ではないようだが、ぼさぼさの髪型がシルエットから分かる。誰だろう、この寒い中であんな場所に座っているなんて。

その時、同行者から携帯で呼ばれたので、すぐに立ち去ったが疑念が残った。もしかしたら、あれはお風呂でおぼれ死んだ人の霊ではないだろうか。だとしたら、初お化けだよな。

無性に気になったので同行者に話すと「よせよ、気持ち悪い」と引き止められた。この場で言い合うのも不躾な話なので、その場は引き下がった。でも、もう一度観に行ってやろう。

トイレに行くと嘘をつき、さっそく渡り廊下に向かう。日が昇ったせいで、さっきより明るい。おかげで人影なんてないことだけは、はっきりと分かった。やっぱり気のせいかと思ったら、暗がりにぼさぼさ頭の人影が見えた。

ちょっと心臓ドキドキしながら近づいてみた。ついに最初のお化け遭遇か!

10メートルほど近づいてみたら正体がわかった。なんと暗がりにモップが数本、椅子に立てかけてあり、それがぼさぼさ頭に見えたらしい。しかもご丁寧にも赤いマットが椅子にかけてある。

これか、赤い人影は。まったく人騒がせな話だ。おそらく雪明りで錯覚したのだろう。まァ勝手にこちらが空騒ぎしただけなんだがね。でも、やっぱり私はお化けに縁がないらしい。ちょっと残念でした。
コメント (10)
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