人間は他の生き物を食べて生きている。
20代の頃は長期の自宅療養を経験している。薬を飲んで寝るだけの毎日だが、それだけでは退屈過ぎる。だから本を読んだり、ヴィデオを観たり、いろいろ暇つぶしをやっている。
その一つに料理があった。とにかく時間だけは有り余るほどあったので、手のかかる料理にチャレンジしてみた。その代表がコンソメスープ(チキンブイヨン)作りだ。
予め精肉店に鶏がらを頼んでおいて、まずは大鍋に入れて煮込むところから始める。セロリや人参、ローリエも同時に煮込む。鶏がらからは、どうしても血合いが出てきてスープを濁らす。だから二時間ほど煮込んだら一度スープを捨てる。
もったいない気がするが、これをやらないと澄んだコンソメスープにならない。二度目の煮込みでも、アク取りは欠かせないし、何度か濾す必要がある。こうしてあの黄金色の香り豊かなコンソメスープは出来上がる。
ところで、私は初めて作った時は失敗している。鶏がらから出た血合いにより濁ったスープを捨てなかったのだ。おかげで濁ったコンソメになってしまった。風味も少し野趣臭くなってしまった。
でも、今になって思うのだが、あれは本当に失敗だったのだろうか。私がスープを捨てるのをしなかったのは、あまりに芳醇な香りに魅せられたからだった。
たしかに血の濁りはあった。香りもレストランで味わったあのコンソメスープの香りではなかった。でも、より濃厚で、香りがふくよかだったように思う。多分、鶏がらスープの根源的なものだったと思う。
コンソメスープはその根源的な野生の香りを香草類などを使って排除し、上澄みだけで作られるのだと思う。
別にコンソメスープに限らないが、現代人は上積みだけ食べている。スーパーで売られている食材の大半がそうだ。血が大量に流れていたはずのもも肉は、綺麗に切り分けられて、血が流れていたことさえ思い出せない。
チキン料理を食べる時、ニワトリが締められる時の苦悶の声を思い出す人はまずいない。首切られ、血抜きのために逆さ吊りされた下に貯まる血の池からあがる蒸気なんて、見たこともないのが普通だ。
生き物が生きてくために必要なドロドロした部分を切り分け、清浄化された部分だけを我々は食べている。かつて、鳴き声を上げ、地面を駆け回り、暖かい血が流れる生き物を食べていることを自覚することは、まず滅多にない。
私は自然保護といった言葉が嫌いだ。自然の上澄みだけを保護しようとする自分勝手、人間本位の傲慢だと思っている。自然は決して優しい代物ではないし、美しいだけでもない。
自然には美しくもなく、優しくもない獰猛で醜悪な部分もある。それもまた自然の姿だ。そこを無視しての自然保護、自然との共生なんて、薄っぺらな自己満足、自己欺瞞にしか思えない。
極端な言い方だと思うが、仲間や家族がクマに食い殺されてもなお、クマを保護しろと主張する覚悟があってこその自然との共生だと思う。自然に害される覚悟がない自然保護なんて、上澄みだけの自然しかみてないと思う。
北国の山、東北の森を舞台に小説を書き続ける作家、熊谷達也が読者の前に提示するクマ問題。里山を離れて街中にまで出没するツキノワグマのニュースは誰しもが記憶にあると思う。
クマに怯える地元住民と、絶滅を危惧されるツキノワグマの保護を訴える自然保護団体に挟まれて苦渋する自治体政府。利益にならぬ報道には関心を持たないマスコミと、これまた絶滅が危惧されるマタギたちの悩み。
正しい答えが見いだせぬなかで、より良き解決法を模索する人々の相剋には、自らの無知さを自覚せざるを得ない。
人間にとって都合のよい自然を守ることが正しいと言えるのか、この本は痛烈に読者に問いかけてくる。ツキノワグマを通して自然保護と人間社会のあり方を問う良作だと思います。是非、どうぞ。