大規模な天災のたびに評価が高くなる軍隊、それが日本の自衛隊だ。
最初にどうしても書いておきたいが、自衛隊は憲法違反である。憲法を素直に読めば、軍事力の保持を禁じており、軍事力を行使することは当然に憲法違反である。如何にどう解釈しようと、この事実に変わりはないと私は確信している。
元来は奇策であった。アメリカから再軍備と戦争協力を求められた吉田首相(当時)は、憲法9条をたてに拒否した。だが所詮はアメリカの軍事的従属下にあった当時の日本である。結局、自衛隊という名の軍隊を設立せざるを得なかった。
戦後の日本が、国防をアメリカに委ねる一方で、国力を経済発展に集中させて再建を図り、やがては世界第二位の経済大国として復活したのは歴史的事実である。だが、その一方で国を守るための努力を怠るどころか、本質的な国防の議論から逃げ、言葉遊び(憲法9条解釈など)に堕していた。
しかし、如何に言葉遊びを弄しようと、戦後の日本は世界有数の軍隊を保持する国であり、実際に戦争に参加している国でもある。朝鮮戦争、ヴェトナム戦争では米軍の補給基地として戦争に参加している。
また湾岸戦争での掃海艇派遣や、ソマリアや東チモールでの国連PKOへの参加は、軍隊の海外派兵に他ならない。日本は国策として正式に軍隊を海外に派遣して戦争を既にしている国である。
にもかかわらず、憲法9条を盾に平和国家面している嘘吐き国家である。いつまで嘘をつき続けるのか?
困ったことに、意図的な偽装としての平和国家ならばイイ。ところが真面目な日本人は、偽りであることを見て見ぬふりして、自衛隊という奇妙な名前の軍隊を真摯に育成してきた。
その結果、人的質の高いが、戦闘経験はない奇妙な軍隊が出来てしまった。災害救助においては高い経験値を持ち、ほとんどの国民から高い評価を得ている。軍隊を否定することが平和につながると盲信しているマスコミや文化人の想いとは裏腹に、東日本大震災での活躍により、自衛隊に対する評価はうなぎのぼりである。
この評価は国内だけではない。イラクや東チモールなど自衛隊が派遣された国々でも、自衛隊に対する評価は非常に高く、日本の軍隊が世界に再び侵略をすると大騒ぎであったシナやコリアの想いとは裏腹に、国際的評価も高まるばかりである。
だが、喜んでばかりもいられない。これまでの自衛隊の海外任務は、大半が兵站業務であり、戦闘になるような場面は極力避けられてきた。しかし、アメリカ軍は、この人的質の高い軍隊をこれまで以上に活用することを希望している。
そう遠くない将来、自衛隊が戦闘に遭遇し、戦死者が出ることは避けられないと私は予測している。当たって欲しくない予想だが、残念ながら当たるであろう。さて、万が一この予想が当たり戦死者が出たとき、その英霊は靖国神社に祭られるのか?
いったい何時まで日本国民は、憲法9条という欺瞞を守り続けるのか。
表題の著者は、いささか自衛隊寄りに偏り過ぎにも思うが、現場の自衛官の意見や、イラクや東チモールの現地民への地道な取材などを通じて、自衛隊が不当に扱われることへの疑念と憤懣を隠せずにいる。
その怒りは、確信犯である平和盲信反日自虐教徒ではなく、事なかれ主義に逃げている普通の日本国民にこそ向けられるべきだと思うが、そこは大人の判断。営業的判断もあるかもしれないが、この本ではそこを誤魔化している。
だから著者に替わって私が言ってやる。事なかれ平和主義は、法制度を捻じ曲げ、現実と乖離しているが故に、いつか必ず法治を捻じ曲げて現実に打撃を与える。
分かりやすく言えば、下記のような未来が予測できる。
ある日、沖縄に日本からの独立を求める平和を愛する市民グループが武装蜂起し、その理念を支援するためにシナの軍隊が派遣されて独立国家沖縄が誕生してしまう。話し合いに応じるふりをして、着々と実効支配を固めるため、日本人男子は大陸の労働キャンプに送り込み、日本人女子はシナ人との婚姻を進め、公立学校では日本語を禁止して漢語のみを教え、沖縄は伝統的歴史的にシナの属国であると頭に叩き込む。
憲法9条と話し合い至上主義に毒された日本政府がなにもできずに、事なかれ主義を発揮して徒に会議ばかりで、何もしない現実に絶望した自衛隊有志は、沖縄でシナの独裁支配に苦しむ若者たちの救いの声を無視できずに、遂に実力行使に至る。
沖縄で突如発生した武装反乱の主軸に日本の自衛隊兵士の姿が確認され、遂に沖縄北部にシナからの独立派の自治地域ができてしまう。この反乱に対し大量の軍隊を派遣しようとするシナに対し、国民の支持を得た自衛隊幹部までもが沖縄への部隊駐留を実行してしまう。日本政府はただ右往左往するばかり。
勘のいい人なら気が付くように、これは半世紀前、日本帝国陸軍の鬼才・石原莞爾が企てた満州国独立や、その後の満州事変と同じ骨格を持つ。すなわち中央政府が軍隊の暴走をコントロールできず、国民はその暴走を支持してしまう。
明治憲法の欠陥と、国民の不満を御しきれなかった政府の失策が大陸での意図せぬ日本政府の侵略の事始めであった。
現実から乖離した法制度は、緊急時にこそ欠陥を露呈し、破滅的な未来へと暴走させてしまう。法治国家は情勢の推移に応じて、常に法制度を改めていかねばならない。だからこそ立憲国家でも共和制国家でも、常に憲法や国家基本法は改正を重ねている。
それに引き替え、この日本は半世紀以上憲法を見直していない。半世紀前の日本と当時の国際情勢と、今日のそれが同じであると思っているなら、ただ単に愚かであると思うだけだ。昭和憲法の欠陥と、有事法制の不備は、今も変わらぬ日本の構造的欠陥である。
しかし、それを現実には分かっていながら何もしない、事なかれ主義に逃げている。その主犯は誰か?
いうまでもなく、日本は民主主義国家である。主犯は投票権を持つ有権者であることは明白だと思う。嘘吐き国家であることを追認しているのは、有権者がそれを望んでいるからだ。そう思われても抗弁しようがない。
私は別に政治活動をしろと言っているのではない。欠陥を見て見ぬふりをすることは、再び泥沼の戦争に日本を引きづり込むことと同じであると言っているだけだ。そして、それを追認しているのが、多くの日本の有権者であると確信している。
自分の家族を戦場に行かせたくないのなら、いい加減平和国家日本という幻想から目を覚ますべきだと思います。